笑う逃走者の影を踏む
廊下に響く、一つだけとなった私の足音。
背後で感じるお嬢様の存在。
それが、私の後ろ髪を強く、強く引っ張る。
感情のままにお嬢様のもとへと戻り、「ヒーロー、あなたが追いかけてください」と言ってしまいたい。
だけど、私と手負いのヒーローでは、私の方が適任だ。
頭では分かっている。
お嬢様は、躊躇なく“私”を選んでくれた。
それは嬉しく、その気持ちには応えたい。
奥歯を強く噛み締める。
だけど、この感情だけはどうしようもない。
エントランスにたどり着き、エレベーターには乗らず、近くにある非常階段の扉を乱暴に開ける。
エレベーターにも何が仕掛けられているか分からない。
それに、私ならこちらの方が速い。
段差を何段も飛ばしながら、平地を走るかのように地上へと向かう。
階段を上れば上るほど、お嬢様の気配が遠くなっていく。
それに比例して、濃くなっていく気配。
事務スタッフのトップ。
ここまでしておいて、逃げ出す恥知らずの男。
あの下卑た笑いがちらつく。
懐の冷たい感触を確かめる。
いつでも、切り裂けるように。
まもなく、地上への扉に辿り着く。
───灯お嬢様、すぐに戻りますから。
速度を緩めることなく、決意と激情を胸に私は地上への扉を開け放った。
乱暴に開け放たれた扉が悲鳴を上げる。
それが、お嬢様の声のように聞こえて、私の胸に少し影を落とした。
一方、事務スタッフのトップは早足でビルを出ていた。
目の前には黒塗りの高級車。
先を歩くスタッフが、後部座席のドアを開けた。
私が乗り込むと、スタッフはドアを閉め、運転席へと乗り込んだ。
「このまま、本部へ?」
エンジンを掛けながら、スタッフがバックミラーで私を見る。
「えぇ。この支部は敵の手により既に“占拠”されてしまいました。苦肉の策として情報を抹消するために放棄します、よろしいですね?」
私の言葉に、スタッフは不安な表情をしながら頷く。
「……MARIONETTEはよろしいので?」
スタッフの言葉に、なにを言っているのかと眉を顰める。
「あれは道具でしょう? それに持ち主の了承も頂いています」
そうですか、と口の中で呟くように言ってスタッフは車を走らせる。
このスタッフも、危うい。
時期を見て処理しなければ。
どうすれば違和感なく処理できるか。
そんなことを考えながら息を一つ吐いて、座席に身を預ける。
ぼんやりと車窓から流れる景色を眺める。
───やれやれ、また一からですか。
そう思うのとは裏腹に、心は軽い。
あれだけ邪魔だった白瀬 灯も、House Keeperも、RED CAPでさえもこれでいなくなるだろう。
おまけにHEROまで。
あぁ、なんと晴れやかなのか。
想像するだけで、口に笑みが浮かぶ。
ふと、記憶の端に引っかかるものがあるのを感じる。
自室で、誰かに何かを命令した気がする。
MARIONETTEに最後の命令を下す前に。
だが、靄がかかったようにその記憶がうまく思い出せない。
私は何を言って、どう答えられたのか。
そもそも、そんな者はいたのだろうか?
「まぁ、些事ですね」
そう、些事だ。
目的の為なら、人も、物も、些事だ。
「くくっ」
声に出そうな笑いを、噛み殺す。
「ははっ」
だが、噛み殺し切れず、笑い声が口から漏れた。
「ははははははははっ───」
漏れ出したら止まらない。
狭い車内に響く笑い声。
なんと愉快な気分だ。
運転するスタッフが、バックミラー越しに恐ろしいものを見るような目をしていた。
それさえも、心地いい。
笑い声を響かせながら、車は走り続ける。




