まだ名前のないものへ
慌ただしく人間が周囲で動いていた。
行ったり、来たり。
それに反応することなく、床へ座っていた。
右手はなぜか、ずっと自らの足に触れている。
左手はなぜか、自らの胸の辺りを押さえている。
背後の扉が開く。
───分かっていますね? ここに来た者を殺すのです。白瀬 灯を殺すのです。
そして、最後に通りすがりに命令された。
「しらせ あかりを、ころす」
それを復唱した。
満足したように、命令した人間は離れていく。
それを確認することはなく、命令を復唱する。
「ここにきたものを、ころす。しらせ あかりをころす」
エラーは出ない。
だけど、手は握り締められている。
足を、胸を。
理解不能。
これは、なに───?
命令と、疑問が交互に溢れてくる。
それは解消されることなく、ずっと繰り返される。
センサーが近づいてくるものを知らせる。
床からゆっくりと立ち上がった。
廊下の奥から人間が三人来た。
「ひーろー、はうすきーぱー、しらせ……あかり」
来た者は、殺さなくては。
臨戦態勢をとる、はずだったのに。
なぜか、その手は、足は動かなかった。
「止まれ」
ヒーローが静かに、短く言った。
その視線の先に、ペールブルーのドレスに身を包み、同じ色のボンネットを被り、黒いバルブトゥを揃えて立つ、マリオネットがいた。
「マリオネット……」
ガラス玉のような瞳が、私達を見つめている。
その目が酷く、揺らいでいるように見えた。
「わたしは───」
マリオネットの視線は、ヒーローでも、喜伊さんでもなく、私に向けられていた。
「ここにきたものを、ころす」
その言葉に、ヒーローは剣を抜く。
喜伊さんは私を庇うように前に立った。
「しらせ あかりを……ころすの」
その言葉に一瞬ノイズが混じったように聞こえた。
私に向けて伸ばされるマリオネットの手。
その指先は、離れていても分かるほど、震えていた。
恐ろしい?
違う。
悲しい?
それも、違う。
どれにも当てはまらない。
マリオネットの声に、瞳に滲むもの。
庇ってくれる喜伊さんの前に出る。
伸びる喜伊さんの手を避けるように、さらに前へ出る。
それでも、マリオネットは微動だにしない。
「それは、あなたの望みなの?」
マリオネットの首が、カクリと傾げられる。
「のぞみ……? めいれいされたから」
「私を殺せって?」
マリオネットは頷く。
「マリオネット。あなたは、それがしたいの?」
「したい? よく、わからない。めいれいされたから」
機械的な返答。
だけど、その声は尻すぼみに小さくなっているように聞こえた。
「あなたは、ただ命令されているだけ。あなたのしたいことを教えて」
マリオネットに向けて手を伸ばす。
マリオネットの伸ばす手を掴むように。
「マリオネット───」
届くはずのない手。
触れるはずのない手。
それでも、ほんの少しマリオネットの指先に触れた気がした。
まるで、それを恐れるように、マリオネットの手が弾かれたように引かれた。
引いた手を胸に抱き、上目遣いに私を見る。
その目は、無垢な瞳は、怯えたような色をしていた。
「しらせ あかり……ありがとう、ってなに?」
ノイズが混じった、絞り出したような声。
こんなにも。
こんなにも、マリオネットは───。
私は胸を強く握りしめる。
分からないまま、戦おうとするのが悲しくて。
そんなマリオネットに、命令をする者がいることが悔しくて。
「わからない、わからない。しらせ あかりがなにをいってるのか」
マリオネットの人形のような顔がわずかに歪む。
「しらせ あかりを、ころさないといけない……!」
初めて声に、感情の色が滲んだ。
身の内に生じるものに恐怖し、拒絶するように。
「それでも、私は───」
さらに一歩、前に進む。
背後で喜伊さんの息を呑む音が聞こえた。
だけど、手を伸ばし続ける。
「マリオネットに手を差し伸べたい」
あの時のように、蹲るマリオネットの手を取りたくて。
この手が、マリオネットの中にある“もの”に届くことを願って。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
再び、灯と出会ったマリオネット。
その内に生じるものは、どうなっていくのか。
灯の手は、マリオネットの手を取ることができるのか。
戦いたくない灯、戦わないといけないマリオネット。
その二人の想いが交差する次章。
その物語を少しでも楽しみにしてくださると幸いです。




