傷はまだ血が流れて
喜伊さんは、ついさっきまで寝ていたのが嘘のように、起きるなり家事を始めた。
「喜伊さん、無理したらダメだよ」
そんな私の心配をよそに、いつもの笑みを浮かべながら首を振る。
「いえ、ゆっくり休めましたから、十分に回復しております。それに───」
私の頬をそっと撫でた。
「こんなにもやつれてしまって。食事は十分に召し上がりましたか? 」
喜伊さんが心配で、ろくに食事も喉を通らず、睡眠も十分とれたとは言えない。
思わず目を伏せてしまった。
「私が至らぬばかりに……。ですからお嬢様、心配をおかけした分これからはゆっくり休んでください」
喜伊さんは私を責めているつもりないのだろう。
悲し気な笑みを浮かべながら、また食事の準備を再開する。
私は何も言えず、静かにカウンターに備えられた椅子に座った。
「ヒヒッ。まぁ、今までサボった分、アバズレにはしっかり働いてもらおうぜ」
一つ離れた椅子でレッドキャップが、ニヤニヤとしながら私達を見つめる。
喜伊さんはなにも言い返さないが、少し包丁がまな板を叩く音が大きくなった気がする。
そのわずかな反応を楽しむように、レッドキャップは意地悪気な笑みを浮かべながら、牛乳をあおる。
誰も喋らない静かな空間に、喜伊さんが料理をする音が響く。
何日かぶりの音。
それが、妙に懐かしくて、心地よかった。
まるで子守唄のような音を聞きながら、頬杖を突いてぼんやりと喜伊さんを眺めた。
ふと、喜伊さんの料理の手が止まった。
それと同時に、BARにつながる階段から足音が聞こえた。
硬いブーツが床を叩く音。
レッドキャップの足音より静かで、だけど重い足音。
なにかを背負っているような、聞きなじみのない重さ。
その足音に思わず扉の方を向く。
レッドキャップは「やっとかよ」と呟くように言いながらコップを傾ける。
喜伊さんは包丁をまな板の上に置き、扉へと正対した。
足音がBARの扉の前で止まると、ゆっくりと扉が開かれた。
外の風がBARの中に流れ込む。
風に乗って微かに漂う、血の匂い。
現れたのは、傷だらけの男───ヒーローだった。
「ほら、ヒーローのお出ましだぜ。全く、どこをほっつき歩いてたんだよ」
レッドキャップの悪態に、ヒーローはただちらりと視線を返すだけ。
あの時と同じヒーロー……なのだろうか。
包帯がまかれ傷だらけ、だけど。
その目に光が無く、ただ闇のような虚空が広がっているように感じる。
あんなにも大きく感じた体が、ひどく小さく感じ、存在さえも希薄だった。
疲れ切ったように、緩慢な動作で手近な椅子を引いて、どかりと座った。
その異様な雰囲気に、私の喉が鳴った。
喜伊さんも、なにか異常を感じているのだろう。
ヒーローを頭の先からつま先まで。
なにかを考えながら、まるで観察するように、じっと見ている。
「……サタンをどうしたのです?」
なにかに感づいたのか、喜伊さんの言葉は鋭く短い。
ヒーローの体が、ほんの少し揺れた。
「あぁ、それならヒーローがぶっ殺したから、問題ねぇ」
その言葉の衝撃に、私と喜伊さんは、声さえも上げることができなかった。
しんっと空気が止まったような感覚。
その静まり返った中で、レッドキャップの笑い声だけがBARに響く。
まるで、レッドキャップしかいないような、そんな空間。
私も喜伊さんも、その真意を尋ねる言葉を発することができなかった。
ただ、視線だけをヒーローに向けて返答を待った。
なにか大きなものを呑み込むように、ヒーローは少し目を閉じて───。
「……そうだ」
その静かな世界に投じられた、ヒーローの短い答え。
およそ感情のようなものが込められていない、冷たい声。
だけど、私には必死に声の震えを抑えているように聞こえた。
テーブルの上に置かれたヒーローの握り締められた両手が、微かに震えている。
血が滲みそうなほど力強く握り、白くなった手。
まるで取りこぼしてしまったものを、もう一度掴み取ろうとしているように。
以前見た、ヒーローとサタンの間に浅からぬ因縁があるのは想像できた。
サタンは敵だった。
ただヒーローにとっては、敵と簡単に言えない存在だったのか。
多くを語らないヒーローからは、その答えが聞けそうにない。
だけど、その雰囲気が、表情がとても悲しくて。
まるで、大切な何かを置いてきてしまった人のように。
その姿に思わず胸元を、強く握りしめた。




