握った手と、離した手
微睡む意識。
起きているのか、いないのかも分からない。
ふわふわと、足場のない感覚。
まだ眠っていたい。
だけど、起きないといけない。
そんな相反する気持ちのなか、私の右手を握る温かい感触。
それが、私の意識を引っ張る。
あぁ、そうだ。
この温もりの下に帰らなければ───。
意識が急浮上するような感覚。
息のできない水中から、顔を出したかのように、大きく空気を吸い込む。
目を開けると、眩しい明かりが私の目を刺す。
何度か、目をしばたたかせた。
「喜伊、さん?」
隣から聞こえてくる少女の声。
顔をゆっくりと向ける。
「喜伊さん!」
必死に呼びかけてくれる、その少女の顔は、未だぼやける視界でうまく見えない。
ただ、その不安そうな声に、なんとかしなければと使命感のようなものが湧き上がってくる。
「喜伊さん!」
何度も、私の名を呼んでくれる。
幾度か瞬きを繰り返して、少しずつピントが合ってきた。
髪はぼさぼさで。
涙が滲む目には、隈が浮かび。
やつれたような印象の少女。
喜びに顔は笑みを作ろうとしているが、上手く笑えていない。
その表情に、私の胸が痛んだ。
「お、じょう……さま」
水分がほとんどなく、へばりつくような喉が無意識のうちに言葉を発した。
「喜伊さん、分かる?」
私の右手を胸に握りこみながら、顔を近づけてくる。
その握られた手を見つめる。
この手が、私を───。
ずっと握ってくれていたのだろう。
熱を帯びたその手を、握り返す。
「私は……まだ、生きているのですね」
独白のような言葉に、お嬢様は何度も頷く。
潤んだ目からポロポロと涙がこぼれだした。
「よかった、よかったよぉ……」
泣きながらも、何度も良かったと繰り返すお嬢様。
口には安堵の笑みが浮かびながらも、涙は止まらない。
しゃくりあげながら、震える体。
いつもより小さく、幼く感じるその体に胸が痛くなる。
「申し訳……ございません」
思わずこぼれたその言葉に、またお嬢様は何度も首を振る。
「いいの、喜伊さんが生きていてくれたなら……それで……」
祈るように、お嬢様は私の手を抱き込み胸に当てる。
服装は乱れ。
髪もろくに整えられておらず。
食事もろくに取れなかったのか、やつれた顔。
それでも、思わず目を細めてしまうようなお姿だった。
その姿を見て、私はまた決意を新たにした。
布団から起き上がり、お嬢様が用意してくれた水を飲んだ。
乾ききった喉に、痛みが伴うほど染み渡る冷たい水。
思わずむせそうになるのを堪えながら、空になった隣の布団を見つめる。
「それで、レッドキャップは───」
私が起きたことに気づいたら、いの一番に悪態をつきに飛んできそうな存在。
「今朝、散歩に出かけると言って、まだ……」
時計に視線を移すお嬢様と一緒に、私も時計を見た。
時計の針は夕方を指そうとしていた。
その時、遠くで乱暴に開けられたドアの音が聞こえた。
静寂に異物が混じるように、空気が変わる。
無遠慮な、床を乱暴に叩く靴の音が近づいてくる。
「よう、寝坊助。やっと起きたのか」
現れたのは、意地悪気な笑みを浮かべたレッドキャップだった。
「どこに行ってたのですか?」
私の問いかけに、楽しそうにレッドキャップは笑う。
「あぁ。ちょっとな、ヒーローに粉かけてきたんだ。お前がサボってる間に、なんとかしねぇといけないと思ってな」
ヒーローとレッドキャップの違和感ある組み合わせに思わず首をひねる。
「ヒーローに? 彼を仲間にするつもりですか?」
レッドキャップが動いたことに驚く。
その動きに、なにか裏があるのではないのかと、思わず邪推してしまう。
「あぁ。まぁ、少なくともアタシ達が争うことはねぇさ」
”あの”ヒーローが私達側に付く。
その違和感に、レッドキャップがどんな手段を使ったのかを考えてしまう。
「彼は今どこに?」
「野暮用を済ませてくるそうだ」
それに、と言葉を続ける。
「ヒーローは遅れてやってくるのが相場だろ? なんせ”ヒーロー”なんだからな」
嘲るように、口を歪めた。
もう使われなくなって久しい、古びた倉庫の一角。
その倉庫内にある、自分の身長ほどある大きな扉の前に立つ。
仄かなランプが点滅し、静かな駆動音を響かせている。
扉の脇にあるメモリは、-30℃を示していた。
サタンを抱えたまま、その扉の取っ手に手をかける。
だが、取っ手に手をかけたまま、その手がなかなか動かせない。
───この扉を開けてしまうと。
思わず腕の中にいるサタンの顔を見る。
なにも答えるはずが無いのに。
しばらく見つめた後、意を決して扉を開けた。
重く硬い扉を開けると、ヒヤリとした空気が、開けた扉から漏れてくる。
中に入ると、刺すような冷気が身を包む。
サタンを床に静かに下ろし、乱雑に積んでいる箱を並べた。
その並べた箱の上にサタンを寝かせる。
用意したタオルで、サタンの顔を、腕を、足を清めていく。
吐く息が白く、吸い込む空気は肺を凍らせるほど冷たい。
サタンの汚れを拭う手はかじかみ、痛みを伴ってくるが、構わず手を動かし続ける。
胸の前で手を組ませ、最後に乱れた髪を整えた。
まるでサタンは眠りに就いたかのように穏やかな顔だ。
用意していた花を懐から取り出す。
ここに来る道中で、摘んだ一本の野百合。
道端に一本だけ凛と咲くその花を、思わず摘んでしまった。
それを組ませた手元へと、そっと置こうとして───。
触れた指先が、離れない。
「俺は……」
手が震える。
それを置いてしまう事が、この想いごと置いてしまいそうで。
置いて、その手を離してしまうと、もう二度と触れられないようで。
何度も逡巡する手は、ようやくサタンの手元に花を置いた。
野百合を一緒に持つように、しばらくそのままで。
「全てが───」
応えがないのは分かっている。
「全てが、終わったら迎えに来る」
それでも───。
「今度は、必ず連れて帰るから」
言わずにはいられなかった。
だれも聞かない、その決意の言葉を。
だれも応えない、その約束の言葉を。
ただ、聞いてほしくて。
別れを惜しむようにゆっくりと手を離す。
そのまま振り返ることなく、冷凍庫から出た。
そして、その扉を閉める。
開ける時より、遥かに重く感じるその扉。
その扉が閉まる鈍い音が倉庫内に響く。
その音だけが、倉庫内に残った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ヒーローとサタンの物語は、ここで終わりとなります。
壊れかけたヒーロー。
その行く先を指し示す、レッドキャップ。
彼はドン・キホーテになってしまうのか、それとも……。
役者は徐々に揃い、物語は佳境へと進んでいきます。
この物語を楽しんでいただけると、幸いです。




