握った手は冷たくて
暗闇から伸びる赤い爪。
見通すことのできない闇。
闇の中を縦横無尽に駆け回るように、サタンの爪は死角から襲い掛かる。
すんでのところで致命傷は避けているが、浅くはない傷が増えていく。
「ねぇ、ヒーロー。いつになったら貴方は私を救ってくれるの?」
闇の中から問いかけるサタンの声。
声は木霊し、出所は分からない。
スポットライトのように限られた照明の中を、いつ背後から襲われるのではないかと警戒しながら辺りを見渡す。
「今までどれだけの数を戦い、どれだけのチャンスがあったの?」
背後から腕が伸び、背中を鋭い爪が嬲っていく。
呻きながらも、振り返るがそこには闇が広がっているだけ。
「貴方は誰よりも苦難を乗り越え、成長したはずなのに」
今度は左から腕が伸びてくる。
躱そうと身をよじるが、躱し切れず、頬を裂いた。
「ねぇ、ヒーローなんでしょ……早く救ってよ───」
懇願にも聞こえるその切ない声に、未だ返せる言葉を持ち合わせていない。
揺らぐ剣先が、それを物語っているようだ。
「俺は……」
動けない俺の体を、後ろから、左右から、容赦なくサタンの爪が切り裂いていく。
躱すこともせず、ただその爪を受け入れ続ける。
迷いが、俺を動けなくさせる。
不思議と、襲い掛かる爪も、致命傷までには至らない傷ばかり。
それは、嬲っているだけなのだろうか。
それとも───。
痺れを切らしたかのように、目の前の闇からサタンが飛び出してきた。
その勢いに、逆らうことなく床へと倒れこむ。
馬乗りになったサタンが、俺の喉元に爪を突き立てた。
涙がこぼれそうなほどうるんだ瞳。
両手は血に赤く染まり、飛び散った血がサタンの頬を濡らしている。
涙の代わりに、血が頬を流れる。
「もう、終わりよ……」
あぁ、やっと死ねる。
こんな呪いのような体、地獄のような人生、それらすべてから解放される。
死に対する恐怖などなく、むしろ安堵に包まれた。
まるで女神の抱擁を待ち受けるかのように振り下ろされる手を受け入れた。
途端に、感じる体の違和感。
何度も感じたことのある感覚。
自分の体が、自分のものでなくなるような、悍ましさ。
俺は、知っている。
これは───。
振り下ろされるサタンの手。
その爪は俺の喉を貫こうとしている。
時間が何倍にも引き延ばされたような感覚。
───早く、それで俺を貫け! 間に合わなくなる前に!
意識さえもじわじわと、取り込まれていく。
意思に反して動こうとする体を必死に押さえ込む。
───早く、早く!
ふと、サタンと目が合った。
ほんの刹那の瞬間。
分かり合えるはずがない。
───それでも。
その顔は、ほんの少しだけ微笑んでいた。
まるで、その結末を喜んでいるように。
───やめろ!
動き出す体。
その手がサタンへと伸びていく。
その手は、彼女を救うはずだったのに。
虚になっていく意識の中、ただ願った。
この体より先に、サタンの手が俺を貫くことを。
気が付くと天井が見える。 天国にしては味気ない、天井。
ごつごつとした床に横たわっている。
起き上がろうとするが、激しい痛みに顔がゆがむ。
「……どうなった?」
未だ朧げな意識の中、あたりを見回す。
まるで爆発が起きたように荒れた室内。
壁は所々えぐれ、床にはひびが入っている。
猛獣が暴れても、このようにはならないだろう。
記憶が混乱しているが、サタンと戦った部屋だ。
「なにが───」
なにが起きた?とつぶやこうとして、視界の端に床に倒れた人間の姿が映った。
身体中が傷だらけで、血が際限なく溢れている。
服なんか役目をはたしていないほどボロボロで、片足は引きちぎられたかのように無くなっている。
まるで、何度も叩きつけられたかのように。
───あぁ、俺がしてしまったのか!
「サタン!」
それが辛うじて今まで相対していた相手だと気付くのに時間はかからなかった。
「大丈夫か!」
痛む体を引きずりながら近寄る。
抱き起こすが、人形のように体は重く、冷たかった。
辛うじて息はある。
パクパクと声にならないものが口から出てくる。
「やっと、終わった……」
絞り出されたかのような声とともに、安堵したようにサタンは深く息を吐く。
「あの頃に、戻れたね」
憑き物が落ちたような穏やかな顔。
「俺、は……」
「そんな顔しないで、私は満足だから」
ゆるゆると伸ばされるサタンの手。
「こんなことの為に、俺は───」
思わず伸ばされたその手を掴んだ。
「やっと、掴んでくれたね……あの時と同じ……」
手を握り締めると、嬉しそうにサタンの顔がほころぶ。
「やっぱり、貴方は私の……”ヒーロー”……」
うわ言のように呟く。
「───」
聞き逃してしまいそうなほど、小さく呟かれた言葉。
俺の名前。
もう二度と聞くことはできないと思っていた声で。
「あっ───」
はっとサタンの顔を見る。
その目は、もうなにも写さず、ただ虚空を見つめていた。
守るべきものも守れず。
この力は大切なものを奪っていった。
「俺は、俺は……」
俺はただ、あの時のように手を差し伸べたかっただけなのに……。
もうなにも言わないサタンを抱き上げる。
そのまま足を引き摺りながら、外に出た。
どこに向かうのか。
当てもなく。
ただ、足が向かうままに。
風が二人の間を通り抜ける。
二人に残った温もりまでも、奪い取ろうとするように。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
呆気無いとも言える、サタンの死。
最後までお互いの想いを知る事なく、分かつこととなりました。
残される側となったヒーローはどうなっていくのか。
少しでもその物語を楽しみにしてくだされば幸いです。




