未来への契約
声が、聞こえた。
懐かしくて、温かい声。
ぼんやりとした視界。
上手く動かせない体。
それでも、その声だけは、はっきりと届く。
「お願いできないだろうか」
はっきりと聞こえ出したその声。
───父さん。
そう知覚した瞬間、視界さえもはっきり映し出した。
私の目の前に父さんの顔がある。
下から見上げるように。
そこで、気づく。
私は父さんに抱かれている。
動かす手は小さく、自分が小さな赤子だと分かる。
そんな私の動きに気づいたのか、父さんは優しい笑みを浮かべ私の顔を撫でてくれる。
その顔は憔悴しきっていて、目には隈が浮かんでいた。
「なぜ、私に?」
少し離れたところから聞こえてくる声。
この声も知っている。
───喜伊さん!
顔を動かし、声の方向へと向ける。
腕を組み、父さんを睨むように見ている。
今と変わらない、シンプルなシャツとパンツの上から黒いエプロンを着ている。
だけど、その表情は冷たい。
私と目が合っても、あの優しい微笑みもなく、ただ疎ましいものを見ているかのよう。
「お前しか、適任者はいない」
私から目を離し、縋るように話す父さん。
「あなたには関係のない子でしょう? なぜ、そこまで?」
関係のない子───その言葉の意味が、分からない。
『どういうこと?』そう声を上げようとするが、言葉にならず呻くような声しか出ない。
父さんの視線が落ち、私と目が合う。
なにかを噛み締めるように、その顔は悲しく歪んでいた。
「……約束だ」
ぽつりとつぶやくように言った言葉。
「アイツが願った、ほんの少しの幸せ。当たり前に叶うもの」
私を抱く力が、ほんの少し強くなる。
「それを俺が捨ててしまうと、アイツの生き様までも否定してしまう」
私を見る瞳は潤み、今にも涙がこぼれ落ちそうなほど。
「その先に同じような結末が待っていたとしても?」
その言葉に、父さんは顔を上げ喜伊さんを見つめる。
「あぁ、構わない。この子はアイツと俺が生きた証だ」
「……理解できません」
喜伊さんは呆れたように首を振る。
「理解なんてしてくれなくていい。ハウスキーパー、お前はお前の仕事をしてくれればそれでいい」
喜伊さんはわざとらしく大きなため息をついた。
「私も巻き込まれたら困るんですが」
その言葉に父さんは首を振る。
「お前の分の仕事も、俺が引き受けるように組織には掛け合うつもりだ」
喜伊さんは驚いたように、目を見開いた。
「死ぬつもりですか?」
───その組織の中で生きる為には、争い続けないといけない。
喜伊さんが言っていた組織での役割。
父さんは私を守る為に喜伊さんを雇い、動けなくなる喜伊さんの分まで自分が危険な目に合おうとしている。
「死なないさ、この子が大きくなるまでは」
頑丈だけが取り柄だからな、と薄く笑う。
「そう、ですね。あなたが死ぬところなど、想像できない」
喜伊さんは、口を少し歪ませて笑う。
「ですが、契約には対価です」
ピッと人差し指を一本立てた。
「月に一千万円。あなたが私の分も稼ぐとして、併せれば払えない額ではないでしょう」
少し意地悪気に言うその言葉は、暗に断らせるための無理難題を言っているように見えた。
「あぁ、それで構わない」
その即答に、喜伊さんの顔色が変わる。
「なぜ、そこまで?安くもないお金を払い、私を雇うのですか?」
「人選としてはお前だけだ、俺が知ってる限りお前以上の適任者はいなかった」
そこで言葉を切って、父さんは私を優しくなでる。
「それに、そこまでと言うがな。俺にとって金で守れるのであれば、はした金みたいなもんだ」
お前さえ生きてくれればそれでいい、そう言ってくれているようで私の胸に熱いものがこみあげてくる。
「はした金、ですか」
吹っ掛けたつもりで言ったであろう金額を、顔色一つ変えず二つ返事で了承した。
そう言わしめる存在、喜伊さんは初めて興味深そうに私を見つめる。
「いつも自分にオールインしている。どうせ、俺が死ねば無くなる金であるし、残されたとしても成人するまでは面倒を見てくれると組織への契約書を書き直すつもりだ」
父さんは、まるで私を捧げるように、喜伊さんへ私を差し出した。
私の未来を、喜伊さんへ託すように。
「ハウスキーパー、俺達の娘を守ってくれ。娘は俺の帰る場所で、命で、未来なんだ」
自らが行きつく先が分かっているかのように。
父さんの瞳は揺るがない。
喜伊さんは一つ息を吐いた。
疑問も、疑念も、すべて吐き出すように。
「わかりました、いいでしょう」
組んでいた腕を降ろし、居住まいを正して、恭しく頭を下げた。
「この契約のもとに。ハウスキーパーの名のもとに。あなたの帰る場所、あなたの宝を守りましょう」
今までの言動が嘘のように恭しく。
そこには完璧なハウスキーパーが立っていた。
「父さん、喜伊さん……」
急速に薄れていく世界。
私の声が木霊するが、二人は気付くことはない。
父さんの腕の中から抜け出したように、視界が俯瞰へと変わっていく。
「ありがとう、父さん」
小さくなる父さんの背中。
おっかなびっくり、父さんからまだ幼い私を受け取る喜伊さん。
「喜伊さん、ありがとう。私を守ってくれて」
もう二人の姿はほとんど見えない。
なぜだか、そのまま二人が消えてしまいそうな焦燥感にかられる。
「だけど、お願い喜伊さん。まだ私には喜伊さんが必要なの」
消えかける二人に、手を伸ばす。
「もっと私の傍にいて」
その手は届くことなく、二人は霧散していった。
「お願い───!」
その声は、どこか遠くではなく。
確かに、誰かへ届くように。




