名もなき芽
気付けば朝になっていた。
見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む陽光。
窓の外から聞こえてくる雀の鳴き声。
それが朝だと知らせてくれる。
だけど、今の私にはどこかそれが異質に感じる。
隣にはきれいに畳まれた布団。
喜伊さんは既に起きて、朝食を作ってくれているのだろう。
体を起こすと、微かに節々が痛む。
自らの体を抱きしめて寝たせいだろう。
抱きしめた手の辺りも微かにひりつく。
だけど、不思議と昨夜の陰鬱な気持ちは薄れていた。
その感覚がなぜだか胸をざわめかせる。
喜伊さんが用意してくれた朝食を食べる。
いつも通りのはずなのに、やけに箸が重く感じ、食材をうまく掴めない。
牛乳を飲もうとコップを手に取ると、コップの中の牛乳が微かに波打つ。
喜伊さんも目の前に座り同じように食事をとっている。
言葉は少ない。
だけど、時折私を見る目は鋭くも、どこか柔らかい気がする。
何事もない一日が終わろうとしている。
いつもと同じように、喜伊さんの隣の布団で寝る。
目をつむる。
聞こえてくるのは、私の呼吸音、時計が針を進める音、風が窓を微かにたたく音。
もう、男たちの声は聞こえない。
男たちの顔も出てこない。
それに安心してしまう自分に違和感を感じる。
代わりに思い浮かぶのは、喜伊さんに命じた場面。
───倒して、喜伊さん
想像の中の私は震えることなく、ただ淡々と命令を下す。
どこか誇らし気に見えるその姿は、まるで映画の一場面のように。
私に似ているけど、私ではない皮を被った”なにか”に言いようのない違和感を感じ、背筋が震える。
その場面が壊れたテレビのように、同じ場面だけを映し続ける。
まるで私が本当にそう命じているような錯覚を覚える。
───私は慣れていくのだろうか。
緩やかな睡魔に身を委ねながら、自問する。
恐怖と違う胸の疼きを感じながら。
レッドキャップが拠点に現れて数日が経った。
灯お嬢様は変わらず、日々を過ごされている───表面上は。
以前のような、震えるだけの幼い印象は消えた。
震え、眠れぬ夜を過ごすことも、なくなった。
お嬢様は、時折何かを考えるように、じっと自らの手のひらを見つめることがある。
その横顔が儚く、今にも消えてしまいそうで。
だけど、その眼差しだけは、なにかを決意したかのように仄かに燃えている。
震えは消えている。
だけどそれは、成長だけとは言えない、形容しがたい危ういもの。
それが細く、だけど長くお嬢様の中に根を張っていくのを感じる。
思わず奥歯を噛み締める。
強くなろうと願ったのはお嬢様。
それを支えるのが私の役目だ。
だけど、本当にお嬢様が望んだことなのだろうか?
願わされただけなのではないのだろうか?
お嬢様を見つめる。
願わくば、その瞳が澄んだままでいられるように。
一抹の不安を胸に抱きながら、私は静かに祈る。
事務スタッフのトップは、いつも以上にキレイに整頓された部屋を見回す。
そして、名残惜しそうに机を撫でた。
机の上にはきれいに並べられた書類が三部。
House Keeper、RED CAP、そして白瀬 灯。
白瀬 灯の名前の下に赤字で書かれたRevengerという文字をなぞる。
「動き始めた歯車は、もう誰も止められない。あとは神のみぞ知る……」
天を仰ぎ、呟くように言った言葉を受け止める者はいない。
事務スタッフのトップは目をつむる。
賽を投げる神が、悪神でないことを祈るように。




