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掌に残るもの

新しい家に来て数日が過ぎた。

今までのことが嘘のような平穏な日々。

だけど、それはいつ終わるかもわからない一時のもの。

なにもしない時間に耐えきれず、私は日があるうちはひたすら庭をいじっていた。

喜伊さんに教わりながら、草を抜き、石を除け、獣除けの柵を整える。

それでも、心の奥底から声が聞こえてくる。


───このままでいいのか?


分かっている。

なにかを始めるにしても、時間が足りない。

気持ちばかりが焦る。


「お嬢様、ご休憩なさってはいかがですか?」

縁側からキリのいいタイミングを見計らって、喜伊さんが声をかけてくれる。


「うん」

汗を拭いながら、縁側に向かう。


「どうぞ」

差し出された麦茶を飲みながら、喜伊さんを見る。

喜伊さんなら、なにかいい考えはないだろうか。


「ねぇ、喜伊さん」

喜伊さんは微笑みながら首を傾げる。


「私、なにかできないかな」

唐突な問いかけに、喜伊さんは目を丸くしながら私を見る。


「このままじゃ、ダメな気がするの。すぐに、どうにかできる魔法みたいなものはないのは分かっている。だけど、私は少しでも強くなりたい」

その言葉に、喜伊さんは俯き、考えるように口に手を当てる。

「そう、ですね……」


やはり、難しいだろうか。

長い沈黙が、答えのように感じる。


「───かしこまりました。少々お時間をいただけますか?」

なにかを思いついたように、喜伊さんは顔をあげる。

その目の奥に、少し冷たいものを感じながらも、私は頷いた。



あのお願いから数時間が経った。

「用意ができました」と、喜伊さんに言われ、二人で山の中へと入っていく。

道なき道を、喜伊さんの先導の下進む。


しばらく歩いていると、足に縄のような罠にかかった鹿が一頭見えてきた。

私達に気づき、逃げようとするが、足にかかった罠により逃げることはできない。


「お嬢様、仰られたように身体的に強くなるような魔法のようなものはございません。ただ、心を強くする”経験”を積むことはできます」


そう言いながら喜伊さんは鹿へと近づいていく。

威嚇するように飛び跳ねる鹿。

その動きを巧みにいなしながら、鹿を後ろから押さえつける。


「お嬢様。この鹿にトドメ───いや、命を奪ってください」


あえて、言葉を変えたのか。

喜伊さんは鹿を抑えながら、懐から包丁を取り出した。


「これを」


刃を持ち、柄を私に向ける。

それは、いつも見る包丁より刃渡りが長く、厚みがある。

この場にそぐわない存在に異様さを感じ、手に取るのを躊躇する。


喜伊さんの持つ包丁がかすかに震えているのに気付いた。

それは鹿の動きを抑えているからか、それとも───。


躊躇いながらも、喜伊さんから包丁を受け取る。


「さあ、ここです」


そう言いながら、喜伊さんは鹿の首を抱え、足を持ち、私に鹿の胸元を見せる。


「このあたりが心臓です。一息に楽にして差し上げてください」

喉がなる。

両手に持った包丁の刃先が震える。

喜伊さんは焦らすことなく、ただじっと私の動きを見ている。

息が苦しい。

なんとか肺に空気を送り込もうと短く荒い息が、口から漏れる。


「───ッ!」


意を決して、包丁を突き出した。

甲高い鹿の悲鳴。

想像以上に硬い、肉の抵抗。

ただ、刃先が少し刺さっただけ。

楽にしてあげることもできず、いたずらに苦しみを与えただけだった。

鹿の抵抗は大きくなり、より一層大きい悲鳴が辺りに響く。

まるで、私を責めるような声に包丁を握る手が緩みそうになる。


地面にポタリと雫が落ちた。

その時初めて、私は自分が泣いているのだと気づいた。


「喜伊さん……わ、私……」


目に見えてわかるほど、包丁を持つ手が震える。

手に残る、肉の感触。

料理をするときに、肉を切る感触とは違うものに、命の抵抗を感じてしまい、私はそれ以上動くことができなかった。


「───できない」


不甲斐なさを恥じながら、絞り出すように言った。

鹿も、喜伊さんも見るのが怖くて、俯く。


「それであれば、お嬢様。お命じください」


その言葉に、顔を上げ喜伊さんを見る。

その表情に慰めや、優しさはなかった。


「私に、鹿を殺せと」


涙で滲む視界の向こうに見える喜伊さんの顔も、苦しそうに見えた。


「一度殺すと選択をし、実行したのです。このまま逃がすという選択は、相手が獣であれ、あり得ません」


私が鹿を傷つけてしまったから。

そこに逃すという選択肢は無かった。


「お嬢様、どうされますか?」


私が殺すのか、喜伊さんが殺すのか。

喜伊さんは私に選択肢を与えてくれている。

たった一言、言うだけなのに、声が出ない。

鹿と喜伊さんを何度も見る。

喜伊さんは、ただじっと待っている。


「……喜伊さん───殺して」


涙に濡れながら、ふり絞るように出た、かすれた声。


「かしこまりました」


喜伊さんは懐から、少し小ぶりの包丁を取り出し、躊躇なく鹿の胸元へと突き刺した。

聞いたことのないような鹿の悲鳴。

しばらく暴れていたが、徐々にその抵抗も小さくなり、ぐったりと動かなくなった。

かすかに動く胸。

口から漏れる小さな呼吸。

そして、私を見つめる瞳。

ゆっくりと鹿は死んでいった。

まるで私を責めるように、私を見続けながら。


「お嬢様、これが命を奪うということです」


動かなくなった鹿の胸元から包丁を抜きながら喜伊さんは言う。

私は喜伊さんの顔を見ることができず、命が消えた鹿を見続けた。


「命は、重いでしょう。本来であれば尊く、普通であれば感じることも難しいものです」


未だ包丁を持ったままの私の手を、喜伊さんはそっと包む。


「ただ、今の私達の状況では命はとても軽いのです。躊躇や優しさが、時には命を奪いに来るほど」


包丁の柄から、固く握りこみ動かなくなった私の指を、優しくほどいてくれる。


「お嬢様、よく決断なさりましたね」


私の手から離れた包丁を懐にしまいながら、喜伊さんは微笑む。

その微笑みに安堵が混じっているように見えた。


「喜伊、さん……」


腰が抜けたようにふらつき、思わず喜伊さんの胸に飛び込むような形になった。

喜伊さんは抱きしめることなく、かといって頭を撫でることなく私を支えてくれる。

それが寂しくもあり、私の今の気持ちではありがたかった。

この気持ちは慰めてもらうものではなく、私が飲み込まなければいけないものだから。


喜伊さんの胸に顔を埋めながら考える。

私の選択で、一つの命が無くなった。

今回は鹿だった。


では、次は───?


私が選べる選択肢が一つ増えた。

だけど私は、その選択をすることができるのだろうか。

未だ手に残る感触が、私に問いかけ続ける。




道なき道を歩く、赤いキャップを被った少女。

それが動くたび、鳥は恐れるようにその場を飛び立つ。


「どこまで、逃げてんだよ」


悪態とは裏腹に、ピクニックをしているかのように楽しそうにレッドキャップは進む。

その足取りは、まるで待ち合わせ場所が分かっているかのように迷いがない。

そこにあるのが、誰かの命の行き着く先だとしても。


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