晴れた日の傘
微かに聞こえる家事の音。
仄かに香る、料理の匂い。
それが私を覚醒させる。
目をこすりながら起きる。
眠気の残る頭で、見慣れない部屋を見渡し、父の家であったことを思い出した。
起き上がろうとすると、手足に残った擦り傷が微かに痛む。
その傷は、時間がたったからか、薄い痣のようになっていた。
未だまとわりつく、見えない枷。
その重みが、ズシリと胸に残る。
それを取り去るように、そっとさすった。
「おはようございます」
寝室の扉を開けると、喜伊さんは待ち構えていたかのように頭を下げた。
「まもなく朝食ができますので、お顔を洗ってきたらいかがですか?」
微笑む喜伊さんはいつも通り。
いや、その声色は、ほんの少しだけ優しい気がする。
「うん、わかった」
洗面所に向かい顔を洗う。
鏡に映る顔。
涙で腫れた目。
頬には擦り傷。
そして。
喉には五つの穴のような傷。
見た目ほど、痛みはない。
サタンの笑い声が、脳裏によみがえる。
鏡に映る背後に、サタンが現れるのではないか。
もう一度顔を洗い、強く顔をタオルで拭った。
そんな考えを振り払うように、鏡から目を逸らし、リビングへと向かった。
目の前の小さな座卓に、朝食が並べられる。
いつのまに揃えたのだろう。
朝食のメニューはいつもと同じ。
ホットミルクの優しい湯気が、心地いい。
喜伊さんは何も言わず、そばに控えてくれている。
慰めも、労いもない。
ただ、いつもどおりを提供してくれる。
それが、なんだか嬉しかった。
今日は、喜伊さんと、いつもより不思議と目が合う。
だけど、なるべく見ないようにしている部分がある。
私の首と、両手足。
話しながら、つい傷をさするような動きをすると、喜伊さんの顔がほんの少しだけ曇る。
それが、私に対する罪悪感のように見えてしまう。
だから、ほんの少しだけ、優しい。
けど、喜伊さん。
それは、違うと思う。
その罪悪感は、喜伊さんだけのものではない。
「喜伊さん」
食後のお茶を置いてくれる喜伊さんの動きが止まる。
喜伊さんが、私を見る。
だけど、喉のあたりを見ないように、視線は私の瞳だけを捉えている。
「私ね、怖かった」
その言葉に、喜伊さんの顔が曇る。
「連れ去られて、何が起こっているのか。何が起ころうとしているのか、分からなくて」
喜伊さんは隣に座った。
膝の上で揃えられた手が、微かに震えている。
その震えに、胸が痛くなる。
喜伊さんを責めたいわけじゃない。
「なにより、私のせいで、喜伊さんがいなくなることが、怖かった」
あの時の、諦めたような安堵の表情が、脳裏に浮かぶ。
「それでもね、喜伊さん」
その微かに震える手を、思わず取ってしまいそうになるのを堪えながら、言葉を続ける。
「私は後悔していない。まだ、進める。だから───」
伏せられていた喜伊さんの目が、上がる。
今日初めて、ちゃんと目があった気がした。
「全部とは言わないけど、教えて欲しいの。なにが起きるのか、私になにができるのか」
私は、笑顔を浮かべる。
喜伊さんに、安心してほしくて。
「私は、大丈夫だから」
───喜伊さんは、悪くない。
そんな思いを込めて。
その言葉に、喜伊さんは少しまぶしそうに、私を見る。
「かしこまりました、灯お嬢様」
静かに、頭を下げる。
なにかを噛み締め、飲み込むように。
いつもより、ほんの少しだけ長く。
「共に進みましょう」
顔を上げた喜伊さんは、変わらない優しい微笑みを浮かべていた。




