その手をとって
サタンは振り返ることなく立ち去る。
その後を、追うようにマリオネットは歩くが───。
べしゃり、と倒れた。
マリオネットは不思議そうに足を見る。
足にまかれていたビニールテープはなくなり、激しい動きをしたせいか、ちぎれかかっている。
そんなマリオネットを一瞥しただけで、サタンは何も言わず倉庫から出て行った。
ちぎれかけた足で立ち上がろうとするが、バランスを崩し、また転ぶ。
もうその足は、足として機能していないのに。
立ち上がろうとしている、その小さな背中。
まるで、幼子が初めて歩こうとしているように。
私の胸に溢れ出すこの感情。
憐憫でもない、この感情の名前は分からない。
けど、私の足は動き出していた。
「お嬢様!」
走り出す私に喜伊さんの手が伸びるが、それが途中で止まるのが視界の端に映った。
喜伊さんの声を振り切って、マリオネットの傍へ走る。
「大丈夫?」
そう声をかける私を不思議そうに見上げる。
「だいじょうぶ」
オウム返しのように言って、再び立ち上がる。
やはり、バランスを崩し倒れそうになった。
そんなマリオネットを支えようとするが───。
「きゃっ」
私より頭一つ小さいのに、想像以上の重さに支えきれず、一緒に倒れた。
マリオネットに押し倒されるような形。
「なんで?」
痛みに顔をしかめる私に、ガラス玉のような瞳が問いかける。
「なんで、たすけるの?」
吸い込まれそうなほど、透き通った無垢な瞳。
「だって、あなたが倒れたから」
息が交わるほど近い距離。
「倒れた人がいたら、手を差し伸べるでしょ?」
かくり、とマリオネットは首を傾げる。
「よく、わからない」
その言葉に、ふっと笑みが漏れた。
───あぁ、この子は。
何も知らないんだ。
「いいの、これから知っていけば」
震える手をマリオネットに見えないように隠しながら、体を起こし、マリオネットが起き上がるのを手伝う。
「足、治るのかな」
そっと、ひどくボロボロの足に触れる。
血は出ていない。
ただ、骨のような、金属のようなものが飛び出している。
怖さはある。
だけど、それ以上の想いが胸に沸く。
「だいじょうぶ。もどったら、なおしてくれるから」
マリオネットは、ぐっ、ぐっと飛び出たそれを押し込もうとする。
「待ってて、なにか持ってくるから」
そう言い残して喜伊さんのところへ走った。
ヒーローがズボンから取り出したタバコに火をつける。
薄暗い屋内に小さな明かりが灯り、煙と赤い火を残した。
「いいのか?」
紫煙をくゆらせながら、ヒーローが横目で私を見る。
マリオネットへと駆け寄るお嬢様。
その背中が、いつもより遠く感じる。
だけど、不思議と不安はなかった。
「えぇ。お嬢様が望むのであれば。なにより、もう敵意はないでしょう」
何事かを話しながらマリオネットに寄り添うお嬢様。
立ち上がろうとするマリオネット。
それを支えようとして、支えきれず一緒になって倒れるお嬢様。
その光景に思わず笑みがこぼれた。
「変わったな」
煙を吐き出しながらヒーローは言う。
「なんていうか、人間らしくなった」
その言葉に、思わずヒーローを見る。
「羨ましいよ、変われるってことは」
私を見ることなく、かといって視線の先のお嬢様たちを見ているわけでもない。
なにか、想い求めていたものを見ているかのように。
「次は、守れよ」
その横顔からは、何も分からない。
「分かっています」
言われなくとも。
もう、次はない。
その言葉に満足したように、ヒーローはタバコを地面に落とし、固いブーツの底で踏み消した。
お嬢様が立ち上がり、私の元へと駆け寄ってくる。
それを迎えようと私もお嬢様に向かって歩みを進めた。
「ハウスキーパー」
お嬢様の元に向かおうとする私の背中に声がかかる。
「分かっているとは思うが、勘違いするな」
ヒーローの顔は険しい。
「俺は味方じゃない。今回はたまたま運が良かっただけだ」
とんとんと太い腕が自分の胸を叩く。
「お前が進もうとする先に、ハッピーエンドはない」
ぶっきらぼうに言うが、その陰に優しさを感じる。
「えぇ、知っています」
そう微笑みながら答え、私はお嬢様の元へ向かった。
それ以上言葉を紡ぐことなく、ヒーローは去って行く。
仄かな紫煙の香りを残して。
「喜伊さん、あのねマリオネットが……」
迎えてくれた喜伊さんの奥で、去ろうとする、その広い背中。
言葉をかけようとして───。
───勘違いすんなよ。俺は正義の味方じゃない
獰猛な笑みが、脳裏に焼き付いていた。
開きかけた口を閉じる。
だけど。
「ありがとう!」
背中にかけた、その言葉にヒーローの足がわずかに止まる。
ほんの少しだけ空を仰いで、また歩き出した。
ひらりと、片手を上げて。
喜伊さんにマリオネットの状態を説明すると、倉庫内で手当てに使えそうなものを探してくれた。
用意してくれたビニールテープと、鉄パイプを持って、マリオネットのところへと二人で戻った。
相変わらず、飛び出たものを収めようとしているが、やはり、うまくいっていない。
私が手当てをしようとすると、「私が」と喜伊さんがマリオネットの傍に座った。
「なんで?」
私に問いかけた言葉と同じ調子で、手際よく手当てをする喜伊さんに聞く。
「お嬢様が、望んでいるからです」
その言葉に、喜伊さんは顔を上げず答える。
今度は私を、マリオネットは見た。
何も聞くことなく、ただじっと。
「こんなものでしょう」
鉄パイプとビニールテープで足首まで固定された不格好な足。
マリオネットは立ち上がる。
足首まで固定されているから、立ち上がるのに時間はかかるが、今までよりだいぶ安定していた。
足踏みをするように感触を確かめた後、マリオネットは私と喜伊さんを交互に見る。
なにかを言いたいけれど、だけど言葉が見つからない。
そんな表情に見えた。
「ありがとう、でいいんじゃないの?」
私の言葉を呑み込むように少しだけ目を伏せ───。
「ありがとう」
じっと私を見ながら、同じ調子で言った。
表情は変わらない。
でも、ガラス玉のような瞳に、少しだけ色が灯ったように見えた。
歩きにくそうに、でもしっかりとした足でマリオネットは去って行く。
マリオネットは、振り返る事はなかった。
だけど私は、ひょこひょこと歩くその背中が見えなくなるまで見送った。
「喜伊さん」
もう見えなくなった、その小さな背中があったところを見ながら言う。
「ありがとう」
ただ、一言だけ。
たくさんの言葉を言わなくても、それだけで、通じると思ったから。
その言葉に、喜伊さんが息をのむのを感じた。
「い、え……」
溢れるものを必死でこらえるように、震える口で言葉を紡ごうとする喜伊さん。
そんな喜伊さんの震える手を、そっと握った。
ずっと力が込められていたのであろう、固く強張った手。
その固さが、嬉しかった。
「帰ろう。私、喜伊さんのご飯が食べたい」
言葉にできず、頷く喜伊さん。
もう、夜が来る。
遠くの空では、太陽が沈み、赤い小さな灯火のような光が残っていた。




