名を呼んで
私は、何を殺したのだろうか。
血濡れたシェフナイフと、それで裂いた男の亡骸を見比べる。
視界にも、感覚にも、記憶にさえも残らなかった男。
それが、お嬢様の叫び声にも似た命令により、突如現れたようだった。
不思議な感覚に戸惑っていると、べしゃりと倒れるような音がした。
音の方へ向くと、お嬢様が血溜まりに倒れていた。
「お嬢様!」
シェフナイフを懐にしまいながら、お嬢様に駆け寄る。
倒れたお嬢様を抱きかかえるが、驚くほど軽く、そして冷たい。
下腹部には、拳ほどの大きさの瓦礫が刺さり、傷口から突き出ている。
緩やかにその傷から漏れる血。
そして、それが地面に大きな血溜まりをつくっていた。
私でも分かる。
この傷、そしてこの出血量。
致命傷だ。
どうあがいても、もう───。
下唇を血が滲むほど噛み締める。
「喜伊さん」
私の膝の上に頭を預け、お嬢様は横になっている。
その声はか細い。
「はい、ここにいますよ」
努めて平静に答える。
今すぐに、お嬢様を抱きかかえて走り出したい。
その衝動を必死で抑える。
「私、ちゃんとできたのかな?」
「ええ、とてもご立派でした」
けれど、抱きかかえて走り出したところで、いたずらにお嬢様を苦しめるだけだ。
それは、私の自己満足に過ぎないからだ。
頭では分かっている。
だけど、感情が胸の中で暴れ回る。
もう、私ができることは、いつも通りの私を演じることしかないのだろう。
それが、歯痒かった。
「ほんと? 良かった……喜伊さんがそう言ってくれると安心する」
苦しいだろうに、お嬢様は笑みを浮かべてくれる。
真様も最後は笑顔だった。
残された者の悲しみを少しでも癒すためか。
───それとも。
「ごめんね、喜伊さん。こんなことに巻き込んじゃって」
お嬢様の言葉に、静かに首を振る。
お嬢様の戦いは、組織そのものを壊すものではなかった。
ただ、一つの支部を壊しただけに過ぎない。
他にも支部はたくさんある。
お嬢様のしたことは無駄だったと笑う者が多いだろう。
だが。
「お嬢様。ご安心ください。喜伊はお嬢様と共に歩めて、とても幸せでしたよ」
そっと頭を撫でる。
私はそう思わない。
お嬢様は、思うがままに進み、挫けることなく、灯火を胸に抱いて歩み切った。
これほどまでに、我を、意思を、想いを、貫き通せる人がどれだけいるだろうか。
「疲れたでしょう。ゆっくりお休みください」
頭を撫でていた手を、頬へ移す。
その代償として、この小さな体に、どれほどの重責があったのか。
どれほどの苦しみがあったのか。
想像もできない。
「ありがとう、喜伊さん。私、とっても疲れちゃった……」
緩やかに命が燃え尽きようとしている。
お嬢様の顔は穏やかで、苦しみがないことがせめてもの救いだった。
「ええ、おやすみなさい。またご飯ができましたらお声がけしますので、ゆっくり休んでください」
いつも通り。
灯お嬢様が不安にならないように。
それが私の、最後の役目。
感情を揺らさないように。
声を震わせないように。
「ありがとう……」
ふと、お嬢様の手が、頭を撫でる私の手を掴んだ。
「お嬢様?」
お嬢様の目が私をじっと見つめる。
その瞳は透き通り、吸い込まれそうなほど淡い。
「お母さん」
不意に呼ばれ、心臓が跳ねる。
堰き止めていた感情があふれ出しそうになるのを何とか堪える。
「……どうされましたか、お嬢様」
ゆるゆると、お嬢様は首を振る。
「灯、って呼んで」
言葉が出なかった。
呼んでしまうと、一緒に感情を吐き出してしまいそうだった。
「……お願い、お母さん」
お嬢様の瞳から、徐々に光が失われていく。
もう、時間はない。
私の感情は激しく、揺れ動く。
喜伊としてか。
ハウスキーパーとしてか。
今まで灯と呼び捨てにしたことはなかった。
それは、喜伊とハウスキーパーという役目に、無意識に線を引いていたからだろう。
口は動くが声が出ない。
名前を呼んでしまうと、私は……。
私は───!
「あ……あ、かり」
何度も、何度も逡巡して、やっと絞り出した声。
ひどくしゃがれた醜い声。
ふっと、お嬢様の口に緩やかな弧が描かれる。
目は嬉しそうに細められて。
まるで親に褒められて喜ぶ子供のように。
だけど、お嬢様は答えない。
私を見たまま、もう動かない。
───届いたのだろうか。
もう、確かめる術はなかった。
「あかり……」
もう一度呟くように呼ぶ。
「あかり……!」
届けと、想いを込めて。
「あかり!」
動かないお嬢様の顔に、水滴がいくつもいくつも落ちる。
それが自分の涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
「あかりぃ!」
感情があふれ出し、お嬢様の頭を抱えて、泣いた。
想いよ届けと。
お嬢様の名前を呼びながら。
声が枯れるほど大声で。
こんなに感情があふれたのは初めてだった。
泣きながら気づく。
もうとっくに、私はお嬢様の家族で、母親だったのだと。
私は奪われたものを取り戻すように、冷たい亡骸を抱きしめ続けた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
大きな代償の対価としては小さな願い。
それでも、灯はそれを求めて行動してきたのかもしれません。
真と喜伊という存在に包まれ、歪な家族の下で育っていった灯。
それを歪と感じながらも、いつの間にか母としての感情が芽生えた喜伊。
一線を引いているつもりでも、灯の死をもって主従以上の感情があった事を、気づいてしまいました。
もう、後悔しても遅いタイミングで。
灯の物語は、ここで終幕となります。
読んでくださった方の心に、何か残ったでしょうか?
次章で一先ずの閉幕となります。
読後に皆様の心に何か一つ残れば幸いです。




