第十五章 開幕のとき来る 一話
「お兄ちゃん。何で泣いてるの? もしかして、リンのせい?」
儚げな瞳をアッシュに向けるリン。
どうやら、泣かせた原因が、自分にあるのでは、と思ってしまったようだ。
「違うよリン。お兄ちゃん、嬉しいんだ。リンの病気が良くなって、母さんと一緒に三人で暮らせる日が来ると思うと、嬉しくてつい泣いちゃって」
目に涙を浮かばせながら笑顔を向けるアッシュ。
すると、太陽のように笑い出すリン。
リンは「えへへ。リンも楽しみ。この先、お兄ちゃんとママと一緒に暮らせると思うと、嬉しくてたまらない」と喜びをデレながら口にする。
そんなリンの頭を優しくなでるアッシュ。
アッシュは心の中で謝る事しか出来なかった。
最初で最後の嘘を、こんな形で受け入れてもらうしかないと言う事実が、この先、リンにどれだけの悲しみを背負わせるのかを、そう思うと、悲しさと悔しさが込み上がってくる。
だがアッシュは、その思いを踏み止ませ、そっとリンを優しく抱く。
リンはアッシュの匂いを嗅ぎながら癒されていた。
「リンちゃーん。そろそろ手術の時間だから、準備しようね」
不意に開いていたドアからナースが優しく話しかけるように入室すると、リンは、恐怖など微塵も感じさせないまま、元気よく頷く。
ベットに寝かせたまま、手術室の前にまで運ばれるリン。
その間、もちろんアッシュは片時も離れなかった。
ずっとリンの手を握っていた。
それを不敵な笑みで出迎えていたのはダージュだった。
リンが手術室に到着すると、ダージュがリンん寄ってくる。
「リンちゃん。安心しなさい。おじさんが必ず治してあげるから。リンちゃんは寝ているだけでいいんだ。痛みや恐怖など、絶対に感じさせないと約束するよ」
「うん。ありがとうダージュ先生」
親しみやすく接するダージュに、リンは満面の笑みで答える。
その時のアッシュは、半ば抜け殻に近い状態だった。
この後、自分は死ぬ。
大切な存在を残したまま。
「アッシュ」
「……ああ。大丈夫」
近くにいたネムイが心配した面持ちで駆け寄ってくると、正気を取り戻したみたいに反応するアッシュ。
それを見ていたリンが「ネムイお姉ちゃん、何時結婚するの?」と突然聞いてきて、片を跳ねらせるネムイ。
「え、ええとね。……三十歳までには結婚したいかなあ」
これを動揺しながらも真面目に答えるネムイ。
それを見ていたダージュがクスクスと笑い出した。
ネムイはダージュを見てムッとした形相を向ける。
「リン。なんでそんなこと聞いたんだ?」
「えとね。ライアお姉ちゃんが言ってたんだけど、女の人が悲しんだり悩むお顔を男の人に向ける時は十中八九、恋心をその男の人に対して向けるアプローチ? 求愛ダンスの一種、見たいな事、言ってた」
「「はあっ⁉」」
キョトンとした面持ちでリンがぶっ飛んだ事を言うものだから、そのギャップに素っ頓狂な声を上げてしまうアッシュとネムイ。
「あのバカ姉」
小声でライアに敵意を向けるネムイだった。
アッシュもネムイも、どう答えてあげればいいのか分からず、戸惑ってしまう。
「いいかいリンちゃん。人間そこそこ生きていれば、恋愛抜きの人間関係や、仕事、いずれはリンちゃんが通う学校の出来事についてでも悩まされる日が来る。だから、こういう時は、優しく相手をしてあげればいいし、悩みがあれば聞いてあげればいい。それだけの事だよ」
「へえー、そうなんだ。うん、分かった。リンそうする」
まさか、ダージュが優しくフォローしてくれる日が来るとは、夢にも思わなかったアッシュとネムイは呆けた表情をしてしまう。
「何を呆けている? そろそろ衣服を着替えろ。始めるぞ」
「う、ウィッ、ウィッー」
動揺しながらもアッシュたちは着替えに行く。
着替え終わり、アッシュとネムイの他に、もう二人の男性医師が事前に「自分たちを今回の手術に同席させて欲しいんです。是非、ダージュ先生の手腕をこの目で見て学びたいのです。お願いします」と申し出てきたため、ダージュは何の躊躇もなく承諾した。
実際、寄生虫を手と道具を使って除去するなど、前例が殆どなかったため、今後の参考にするため参加したいと言う思惑があったからだ。
だが、これが後にとんでもない事件になる事を、アッシュとネムイは知る由もなかった。ただ一人を残して……。
「……もう始まってるよな」
「ああ。これでこのゼロサムゲームは止められない。俺たちは、ただ、結果を待つしかない」
食堂の片隅で、重たい空気が漂っていた。
ライアとカズイが時計を気にしながら、食事もとらず、ただ俯きながら座っている。
少しづつ時間が経ち、刻一刻と、アッシュの死が迫っている。
リンが手術を開始する少し前、全身麻酔で眠っているリンにダージュが、何やら注射でリンに投与しようとしていた。
「ダージュ先生、それは?」
アッシュが目にしたのが、何やら赤黒い液体、
見た事も無い薬液の色に少し心配している面持ち。
「お前は口出しするな。私の実績を疑っているのか?」
「い、いえ、そんな事は」
ダージュは動揺もせず、むしろ言葉に圧をかけると、アッシュは脇目も降らずダージュのやり口を肯定する。
だが、ネムイだけが何かを危惧している様な様子はしている。
だが、医師として居るならば、ダージュの指示には従わなければならない。
それが今の世界の医療機関の絶対不変のルール。
もちろん、ダージュが投与しようとしていた赤黒い液体の正体は竜血浄。
自身の血で脳梗塞の壁を取っ払い、寄生虫の除去にだけ、意識を集中させるため。
だが、この時のダージュにはそれ以外の目論見があった。
見学させてもらっている男性医師は、ただ黙って、何故かダージュを睨みつけていた……。
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