5
ある日の記憶。
僕はいつも通り保健室で過ごしていて、そこで先輩に勉強を教えてもらっていた。先輩は教えるのも上手で、教室で行われているような中学の授業についていけなくなるということもなかった。
そんなある日のこと。
「・・・・・・先輩?」
「あ、ああ、どうかした?」
「いえ、別に」
ただ、先輩の方がどうかしたというか、どこか遠くを見ているような気がした。
「疲れてます? なんか心ここに在らずな感じですけど」
「んー、いや、そんなことないけど」
言いながら先輩は深く息を吐きだした。
「退屈だなーって」
「・・・・・・やっぱり僕に勉強教えるのつまんないですよね」
「あ、ごめんごめん。そういうことじゃなくて」
手を振って否定すると、
「なんかさ、こうやってお行儀よく学校に来てることとか、日々の過ごし方とか、もっと自由でいいのになーって思ってたの」
「先輩でもそういうこと思うんですか」
「そういう望くんも?」
「まあ、方程式とかよく分からんものを知るくらいなら、僕はゲームの攻略に時間を当てたいです」
「あははは。子供だ」
「子供ですもん」
そんな冗談めかしに話していたけど、僕はまだ先輩のいう退屈ってものが理解できていなかった。こうやって保健室で会えることも、勉強を教えてくれることも、僕にとってはとても嬉しいことだった。退屈なんて程遠かった。
*
今日の僕はご機嫌だった。
大学の授業が全て終わり、駅近くの繁華街へと訪れる。
目的地はここにあるゲーム屋。そう、予約していたゲームの発売日なのだ。普段はネット通販で代引きにして親に払っておいてもらうのだが、今回は店舗特典が欲しかった。ちょっとエッチなタペストリー、これを楽しみに買い物に来ていたのだ。
「雨じゃなかったらもっとよかったんだけどな」
不幸にも天気が悪い。ゲームもグッズも濡らしたくないからさっさと買って、さっさと帰ろう。そして籠ってゲームの時間だ。
そんなことを思いつつ歩いていると、
「おい」
「へ?」
声を掛けられた気がしてその方向に向くと、そこにはあからさまな不良と呼ばれる人種の姿。人数は三人。
「お前だよ、お前」
「僕、すか」
不良のうち一人が頷く。
「え、えっと、なんでしょう」
とりあえず愛想笑いを浮かべておいた。
二人に面識はないけど、一人は見覚えがある。この前、先輩に絡んでいた人だ。
「ちょっとさ、面貸せよ」
「い、いや、なんで」
僕の言葉なんて聞く耳も持ってもらえず、近くの路地へと引きずり込まれる。天気のせいもあってかさっきいた場所よりも人の目がない。僕と不良の三人組だけの空間だ。
「な、なんなんですか」
僕はちっぽけな勇気を振り絞って引っ張られる手を振り払う。
「暴れんなよっ!」
素早く顔面に近付く何か、それが拳だと判断できた時には僕の顔に突き刺さっていた。誰かに殴られたのなんて初めての経験だった。それは堪えられないほど痛くて、思わずその場に倒れこんでしまう。
「本当にコイツ? 明乃に手を出してた奴って」
「手を出してたっつーか、近くをちょろちょろしてたやつだな」
「ふーん」
不良達はそんな会話をして、今度は僕の腹を蹴り飛ばしてきた。「げふっ」と空気を吐き出す。何か食べていたら胃の中まで吐き出していただろう。そんな僕に容赦することなく次の蹴りが飛んでくる。
痛い。
怖い。
なんでこんなことになっているんだ。
僕は遂に丸まって理不尽な暴力から耐えることしかできなかった。
「君さ」
何度も蹴られて、殴られて、だんだんと意識が朦朧としてきて。
「もう明乃にちょっかい出さないでくれる? わかった?」
明乃という名前だけが頭の中で反芻する。
誰だよ、その人。そんなことを思いながら一人の女性が浮かんでくる。
先輩? 先輩のことか?
先輩と仲良くしようとしたから、先輩と一緒にいたからこんな目に遭っているのか?
思考が定まらないまま、僕は意識を手放した。
次に目を覚ました時、
「・・・・・・うん・・・・・・?」
蛍光灯が明るい。見知らぬ天井が広がっていた。
「どこだ、ここ・・・・・・」
身体のあちらこちらが痛くて起き上がれない。
でも、真っ白の部屋にかすかな消毒の匂い。
「・・・・・・病院?」
僕がそう呟くと同時に部屋に誰かが入ってきた。
「あら、目を覚ましたのね」
女性の看護師さんだった。どうやら本当に病院らしい。
「覚えてる? あなた、街の路地で倒れてて」
「あ、は、はい。・・・・・・なんとなく」
「とりあえずお医者さん呼んでくるわね」
そう言って看護師さんは病室を後にする。
それからしばらく慌ただしかった。
幸いにも怪我はたいしたことなくて。
来てくれた両親を心配させ。
警察にということで事情を聴かれ。
そうして僕は病院に運び込まれてから二日後に退院した。
僕は日常に戻ってきたけど、腹の痣は服で隠れるからまだしも頬のガーゼを外すことはまだできなくて。
「どうしたんだ、それ」
「痛そう・・・・・・」
松野と宮村、サークルメンバーの皆には心配された。周りには難癖付けられて不良に絡まれて殴られたと説明して。増田さんは何かを察していたように、
「・・・・・・大丈夫か、鈴原」
「ええ、まあ、はい」
「もっと早く言ってれば怪我しなくて済んだかもしれん。すまん」
「い、いえ、増田さんが謝ることじゃないですよ。本当に知らない不良にやられただけですから」
どう忠告されたって、僕はきっと先輩から離れることはしなかった。
でも、怪我をしたって話は先輩にできていない。
あんな集団と先輩が何か関わりがあったとも考えたくなかったし、そうだとしても何も知らない僕から言える言葉なんてなかったのだ。
「最近さ、静かだよな」
松野の言葉に首をかしげる。
「何が?」
「お前がさ」
「僕?」
「ああ、ここ最近ずっと先輩の話してねえじゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
「そんなことないつもりなんだけどな」
なんて言いつつも。その通りだった。
指摘されるまでもない。僕も自分でも分かっていたから。
「何かあったの」
「いや、なんでもない」
そう、何でもない。僕の勝手なことだ。
「・・・・・・」
メッセージアプリで連絡は来ている。
でも、僕は上手く言葉が思いつかなくて、けれども無視することはできなくて、そのときにあった言葉を適当に返して短い会話を続けるだけだった。
先輩のことが嫌いになったわけじゃない。
不良の暴力が怖くて逃げているわけじゃない。
僕は、僕の理想としていた先輩が崩れていくのが怖かったのだ。
僕の知っている先輩は奇麗な人だった。
不良なんかとは縁遠くて、誰からも愛される人で、そんな人が平気で暴力を振れる悪い人達と付き合いがあって、今も繋がりがあるなんて、その事実が、その現実が僕はたまらなく怖かった。
そして、それが僕の理想を勝手に押し付けたものだということも理解していた。
だから僕は先輩に何も言えなくて、このままゆっくりと距離を取っていくのかと漠然に思うようになっていた。
それからまた数日した頃だった。
身体につけられた痣もだんだんと引いて、そろそろ顔のガーゼも取れるだろうと思っていた頃。
「望くん」
先輩は僕の前に現れた。
「あ、っと・・・・・・」
授業も終わり、サークルのもない日で、僕は逃げ場を失っていた。
「その、えっと、あー、お疲れ様です。先輩」
「うん」
「あー、授業、終わりですか?」
「そう、望くんもだよね」
「え、ええ、はい・・・・・・」
愛想笑いを浮かべる。
この場からどう離れようか頭を回す。
そう考えているうちに一歩、また一歩と先輩は僕に近付き、
「せ、先輩・・・・・・?」
そしてガーゼが付いた僕の頬に触れた。
「ごめん」
「な、なにがですか?」
「この傷、私が付けたんだよね」
「そ、そんなの! そんなの違いますよ!」
不良集団が意味も分からず殴ってきただけだ。
先輩は関係ないはずだ。僕は自分の心に言い聞かせる。
「写真、来たんだ」
「写真?」
「望くんが・・・・・・殴られて、蹴られて、倒れてるところ。害虫駆除だって・・・・・・」
「・・・・・・そう、ですか」
上手いこと言われた気分である。害虫駆除か、なるほど。
でも、そうか。
僕の淡い期待は砕かれてしまった。先輩はあの集団と関わりがあって、今も繋がっているのだ。内心はかなりのショックだったが、やはりと予想していたところもあって冷静でいられた。
「・・・・・・どうしてですか」
訊きたくはなかった。
何も知らないままが良いと心の中で思っているのに、
「どうして、どうして、ああいう人達と関りがあるんですか」
僕はそんな質問をしていた。
「・・・・・・まだ、私の話聞いてくれる?」
訊いたのは僕だ。
ここで逃げることはできない。
「もちろんです」
僕は頬に触れる先輩の手を握った。
「聞かせてください。先輩のこと」
「ありがとう」
先輩は微笑んで、
「じゃあ、ついてきて」
「どこで話すんです?」
「私の部屋でいいかな。ここじゃ落ち着いて話せないし、あ、もちろん望くんがいいならなんだけど」
「い、いえ、大丈夫です。わかりました」
そうして僕は先輩の部屋にお邪魔することとなった。
少し前の僕なら浮かれに浮かれて飛び上がっていたかもしれない。粗相をしないか震えていたかもしれない。
・・・・・・いや、今でももちろん嬉しい気持ちはあるのだが、ここでするのはおそらく真面目な話だ。そんなに浮かれてもいられないし、まさかこんな機会で部屋に上がることになるとはと悲しくなる気持ちもある。
心を引き締めて先輩の部屋へ向かおう。二人でいつもの帰り道を歩く。
住んでいる場所は前に話していた通りで駅近くのアパートだった。
その二階の角部屋。建物は建ってからそこまで経っていないのが外壁もかなり奇麗だ。
「どうぞ」
先輩が部屋の鍵を開けて中に通される。
「あ、は、はい、お邪魔しまーす・・・・・・」
部屋の中に入ると、そこは僕のイメージ通りの部屋だった。
ワンルームの部屋には、ベッドに化粧台兼勉強するためであろう机にテーブルとソファの家具。そして先輩の匂いとほんの少しの煙草の香り。いや、匂いを嗅ぐな。変態か僕は。
「ごめん、急なことだったから散らかってて」
「え、いや、そんな」
この部屋が散らかっていたら、僕の部屋なんてどうなるのか。ゴミ屋敷になってしまう。
「そこのソファとか適当に使ってて」
「あ、ああ、はい」
たしかに立って話をするわけにもいかないし、僕はリュックを下ろして二人掛けのソファに座って小さくなる。
先輩はマグカップに飲み物を入れてきて、
「はい、どうぞ」
「あ、どうも。ありがとうございます」
中身はホットココアだった。
「本当にココア好きなんですね」
「あ、ごめん。他のがよかった? 一応紅茶とかも・・・・・・」
「いえいえ全然。僕もココア大好きですから。ありがとうございます」
「そう? よかった」
一口飲んで人心地ついて、隣へと座った先輩の方へと顔を向けると煙草を咥えて火をつけようとしていた。その目が合ったその時、
「ご、ごめん・・・・・・」
先輩は謝りつつ煙草を離す。
「え、なんで謝るんです?」
「お客さんいるのに煙草はないよね。ほんとごめん、ルーチンになってた。帰ってきたらまずココア入れて煙草吸うの」
「いやいや、全然いいですよ」
ここは先輩の部屋だし、僕なんか気にせず自由でいてほしい。
「でも、副流煙とか・・・・・・」
「そんなの気にしないですよ。うちの親父も愛煙家なんです。副流煙なんて今更ですよ」
「そうなんだ」
「はい、だから気にしないでください。それに、僕結構好きですよ、先輩の煙草の匂い」
言いながら少し恥ずかしくなるが、しかし事実だ。先輩の煙草はいい香りがする、気がする。父親の煙草は煙臭いだけだったのに、先輩の煙草の煙は全然そんなことない。
「じゃ、じゃあ、その、遠慮なく」
今度こそ煙草に火をつけて、先輩も人心地付けたように息を吐きだす。
「あ、ああ、で、話なんだけど・・・・・・」
「いいですよ、吸い終わってからで。ゆっくりしてくださいよ」
「ほんとごめん・・・・・・」
申し訳なさそうに謝るが、僕にだって心の準備が必要だ。
どんな話が来てもショックを受けないようにしないといけない。いや、何が来てもショックを受けそうだが、それでも自分を保って家に帰らないといけないのだ。
「そいえば、先輩は紙煙草なんですね」
少しでも落ち着こうと適当に雑談を振っておく。
「え、う、うん」
「最近は電子煙草っていうんですかね? カートリッジ式みたいな。火を使わないタイプのやつとかあるじゃないですか。ああいうのが流行りなのかなって勝手に思ってました」
「まあ、流行ってるよね。私はそれも持ってるけど、なんかなー、煙草っぽくないというか、吸っててもちょっと落ち着かなくて」
「へえ」
よく分からないけど、きっと愛煙家ならではの拘りがあるのだろう。父さんも「ああいうのは若い連中が使うものだ」と紙煙草吸っているし。
「本当は電子煙草の方が良いんだよ。部屋にヤニとかつかないし」
「あ、そうなんですね」
「うん。だからこの部屋から出るとき敷金で出られるか不安。私部屋ではずっと紙煙草だから」
「なるほど」
そんな雑談をしながら、煙草はだんだんと短くなっていて。
やがて火は消えた。
「えーっと」
僕も話を聞く覚悟ができた、つもり。
「それじゃあ、その、聞かせてもらっていいですか。先輩のこと」
「・・・・・・うん」
頷いて、
「でも、そんなに珍しい話じゃないんだ。きっと、どこにでもある話」
「はい」
「私の実家はちょっと厳しめでね。割と自由が少ない家だった。両親と話すのは直近の成績ばっか。それに私は姉がいて、私よりもずっと優秀だったから、よく比べられてずっと肩身も狭くて」
先輩に姉がいるというのは初耳だった。ちょっと気になったけど、話の腰を折るわけにもいかないし黙って頷く。
「高校に入ってすぐね、私、一度だけ家出したことがあるの」
「家出ですか」
「そう。子供だったんだよね。家族の押し付けにやってられなくなって、耐えられなくなって。癇癪起こして家から飛び出したの」
「お、おお・・・・・・」
僕の知っている先輩からは想像もできない姿だ。
「そんな中で出会ったのが、その、望くんを殴った人達のいるグループだった」
「そう、だったんですか」
「・・・・・・うん」
「その、怖くなかったんですか。その、僕はあからさま怖い人達に見えたんですけど」
僕の言葉に、先輩は昔を思い出すかのように目を細めて、
「そうだね、どうだったかな。最初は怖いと思ったのかな・・・・・・」
「最初は?」
「うん、泣いてる私にジュース奢ってくれてね。それから、ちゃんと話を聞いてくれて、慰めてくれて、そのときの私にとってはとても優しい人達に見えたの」
「優しい、ですね、それは」
「そう。私のことちゃんと認めてくれて、私のこと悪くないって言ってくれて、私のやりたいことに文句付けなくて、私に自由をくれて、その時は最高の気分だった。とても楽しかった」
それから、と先輩は言葉を続ける。
「家に連れ戻されたあとも関係は続いて、時間を見つけてはつるむようになったんだ」
そうして先輩の居場所になっていったというわけか。
「大学に入ってからも一緒にいた、というか実家から離れて更に深く関わるようになっていたと思う。暇さえあればずっとつるんでたの」
「まあ、そうなりますよね」
居心地がよかったわけだし。
「ある時、一番良くしてくれたリーダーに告白された。私、嬉しくて、付き合うようになって、本当に幸せな気持ちだった」
「お、おお・・・・・・そうですか・・・・・・」
心に重く鋭い一撃が刺さるが、分かっていた話だ。
「望くん、大丈夫? なんか顔色悪いような・・・・・・」
「い、いえ、はい、大丈夫です。なんとか受け切りましたから」
「受け切る?」
「ああ、いや、そんなのはどうでもよくて、えと、どうして、別れたんですか。好きだったんですよね、その人のこと」
自分の発言にダメージを負いつつ、そもそもこれって訊いちゃダメなことか? と内心不安になる。恐る恐る先輩の表情を窺うと、彼女は困ったように笑っていた。
「私、一番じゃなかったから」
「一番」
それはつまり。
「他にもたくさんの女の人がいたんだ。私は何番目だったんだろうね」
「せ、先輩」
「ま、それだけならよかったんだけどね。私とその人が別れておしまいなんだから。そういうのも結構ある話だったし」
「というと、他に何かあったってことですよね」
僕の質問に、先輩は頷いた。
「確証はない――というか、確証は取れてないって前置きが付くんだけど、グループの人達を使って結構悪いことしてたみたいなの」
「悪いこと?」
「うん。盗みとか恐喝、クスリなんて噂もあった。でも、証拠はなくて、警察とか誰かにこうして話すこともできなくて」
「それは、また・・・・・・」
随分と良くない話に繋がってしまった。
「私も利用されるだけ利用されて捨てられるって思ったら怖くなっちゃって、それで、そう・・・・・・私、また逃げたの」
先輩は「逃げてばっかなんだ、私」と弱々しく笑う。
「そんなことないですよ、誰だって逃げちゃいますよ」
普通の良心、普通の善悪が分かれば、ちゃんと理解できれば悪事に手を染めたくはないはずだ。巻き込まれたくないはずだ。告発もできないなら後は逃げるしかない。
「その、こんな質問はいいのか分からないんですけど」
「いいよ。何でも答える」
「もしその人の一番だったら、先輩は悪いことに手を染めてましたか」
「・・・・・・そうだね」
先輩はココアを一口飲んで、
「そうだったかもね」
・・・・・・先輩の答えは僕の予想通りだった。
「好きだったんだ。あの人のこと、本当に好きだったから・・・・・・」
「そうですか」
感情を掌握して忠実な構成員を作っていく、そういうグループだったのだ。フィクションの世界なら当たり前にあるようなもので、そうか、でも現実にもあるものなんだなとどこか冷静に考えていた。
僕もココアに口を付ける。
メンタルはまあまあズタボロだった。
先輩の過去もそれなりにショックだったけど、それ以上に先輩が心から好きな人がいたということが想像以上にダメージだった。元カレがいたと知った時点で落ち込みはしたけど、こう直接的に聞くと心を抉られる。
「望くん?」
「え、あ、はい?」
「その、引いたよね、ごめん」
「あ、い、いや」
あまりにも場違いのものではあるが、僕は失恋を感じていた。
先輩の過去がどうのというより、僕の気持ちが先輩に届くことはないんだという事実が胸に突き刺さっていた。
「い、いえ、そんなことはないです。その、先輩も色々苦労されていたんだと思いますし、自分の居場所みたいなもの見つけたら誰だってそこに留まりますよ、きっと。だって居心地がいいんですから。そこにいたほうが幸せじゃないですか」
僕はそれっぽいことを言って、笑顔を作る。
「先輩は逃げてばっかと言いますが、いいんですよ。いくらでも逃げて。居心地の悪い家族からも、怖いものからも、自分のことが一番大切でいいんです」
「・・・・・・望くん」
「なんて、僕が偉そうなこと言える立場じゃないんですけどね。すみません、ちょっと調子乗りました」
僕みたいな実家でぬくぬくと両親に甘えて生きている身とは全然違うはずだ。だから、きっと先輩の苦労を心から理解することはできない。
「望くんは優しいなぁ」
でも、先輩は。
「え、あ、あの」
ぽろぽろと涙を零していた。
「ご、ごめん、ごめんね・・・・・・」
「いや、謝ることはないんですけど」
泣いている先輩に何もできない、というか、泣いている女性にできることなんて分からなくて僕は一人おろおろしてしまう。
「こんな優しい言葉掛けてくれるなんて思ってなかった。引かれて終わりだと思ってた」
「そんなことしないですよ」
なんたって先輩の話なのだ。
たしかにショックだったけど、引くなんてことは絶対ないだろう。どんな話でも受け入れるつもりだ。落ち込みはするけど。
「ちゃんと聞きます。その、僕にはそれしかできないですから」
「うん、ありがと」
「僕こそ、話してくれてありがとうございます」
正しいことなのかは分からなかったけど、僕は涙を流す先輩の背中を撫でた。しばらくしてから先輩も泣き止み、微妙な静けさが部屋を支配して、僕はカップに残ったココアを飲み干す。
「じゃ、じゃあ、先輩」
僕はリュックを手に取って、
「そろそろ帰りますよ」
もういい時間だ。会話も一区切りついたし、お暇するには丁度いいタイミングだろう。
「今日は先輩のこと少しでも知れてよかったです」
「う、うん」
「あ、先輩の話は誰にも言いません。約束します。だから、僕には色々と話してくださいよ。愚痴とかなんとかなんでも聞かせてください。その、僕には話を聞くことしかできませんけど」
「うん・・・・・・」
「それじゃ、また」
そうして玄関に向かおうとしたところで、
「ま、まって」
「へ?」
後ろから手を引かれて立ち止まる。
「先輩?」
「あ、あの、えっと、そう! 晩御飯! 晩御飯食べていかない?」
「晩御飯、ですか?」
「うん、私、作るからさ。せっかくだし食べていってよ」
「えーっと」
「なんか用事とかあったりする?」
「いえ、今日は何もないですけど・・・・・・」
そんなに長く女性宅にお邪魔していいものかと思う気持ちもある。しかし、昔話をして先輩も弱気になっているのかもしれない。それなら一緒に食事くらいはいいだろう。これも後輩としての務めだと思うことにする。
そうだ、これはあくまでも後輩としての務めだ。決して勘違いしてはいけない。
「それじゃ、その、お言葉に甘えて」
「うん、そうして」
僕はソファに座り直して、親に夕食は友達と外で済ますという連絡を送る。
「先輩は自炊するんですね」
「親の仕送りで生きている身だからね。できる限りは節約しようと思って」
「なるほど」
とても偉いし素晴らしい。
僕なんか実家暮らしでバイトもせず、未だ小遣いをもらっている身なのに。
「・・・・・・」
テキパキと料理を作っていく先輩の姿を見ながら、これって実はかなりいい展開なのではと思ってしまう自分がいた。
「いやいやいや」
浮かれてもしょうがない。
先輩には好きな人が、好きだった人がいるわけだし、僕なんか眼中にないのだ。いやでも、先輩は僕にとって好きな人なわけで、この状況を喜ぶなという方が無理な話ではないだろうか。
「いや、でもな」
内心ででもでもだってを繰り返す。いったい何をやっているんだ僕は。
「望くん?」
「は、はい」
「どうかした? さっきから考え込んでるけど」
「あ、ああ、いや、えっと、大したことじゃないです」
「そう? ならいいけど・・・・・・」
「はい、すみません」
謝りつつ、僕は内心でとりあえず考えることはやめようと決断する。
他にどうでもいいことを考えよう。
ああ、そうだ。
すっかり忘れていたが、そういえば予約していたゲームを結局取りに行けていない。取り置き期限はたしか一か月だったか。それならまだ余裕で間に合うはずだし、近いうちに取りにいかないと。
ふふふ、ずっと楽しみにしていたゲームだ。これから睡眠不足の日々が始まるぜ。
「へへへ」
思わず笑ってしまう。
「望くん・・・・・・?」
「あ、はい」
先輩の声に思考が中断された。
「本当に大丈夫?」
「え?」
「なんかずっと考え込んでるし、急に笑い出すし」
「い、いや、もう全然大丈夫です」
心配されるようなことはない。ずっとゲームのことを考えていただけだ。
「それならいいんだけどね」
「はい」
「あ、そうだ。御飯できたよ」
「まじすか。ありがとうございます」
思いの外早い完成だ。テーブルに用意されたのは卵とじの丼。
「あり合わせで作ったものなんだけど」
「いえ、もう、すごく美味しそうです! 親子丼ですか?」
「そのつもりだったんだけど、鶏肉を切らしてて・・・・・・豚肉で代用したから、他人丼というやつです」
「おお、美味そうです!」
他人丼。そんな料理もあるのか、なるほど、卵と豚肉で他人と。
丼は大好きな料理の一つだ。親子丼も、牛丼も、豚丼だって美味しいし、これもきっと美味しいに違いない。
「じゃ、食べようか」
「はい」
二人で「いただきます」と手を合わせ、先輩作の他人丼を頬張る。
これは、うん、親子丼――の豚肉バージョンって感じだ。食感は鶏肉と違うけど、これはこれで美味しい。とても美味しい。
「どうかな?」
「めっちゃくちゃ美味しいです!」
「それならよかった」
「はい!」
味付けも濃い目ってのが僕の好みだ。
先輩が作ってくれたという補正もあるが、家で母親が作ったものを食べるものよりもずっと美味しく感じられる。母さんには悪いけど、こればかりは仕方ない。先輩の料理が上手いのだ。僕は美味い美味いと食べ進めてあっという間に丼の中身を空にした。
「さすが男の子」
「え、何がです?」
「食べるの。すごく早い」
「あ、ああ、すみません。もっと味わうべきでした・・・・・・。美味しくてそれどころじゃなかった・・・・・・」
「あはは、そう言ってくれると嬉しいね」
先輩は笑ってくれるが、しかし、後悔に苛まれる。
先輩の作ってくれる料理を食べられるなんて後にも先にもないのだから、もっとゆっくり噛みしめる必要があったのに、美味しすぎてかきこんでしまった。
「よかった。喜んでくれて」
ふふふと先輩が笑って、僕も笑う。
それから先輩も少し遅れて食べ終わって、しばらく談笑して。
「さて、と」
御飯もご馳走になったことだし、今度こそ帰るべきだろう。
もう訪れる機会もないだろうし、とても名残惜しい気分ではあるが、これ以上居ても邪魔になるだろう。
「じゃあ、先輩」
立ち上がって言う。
「今日は御飯までご馳走になっちゃってありがとうございました」
「う、うん」
「それじゃ、また学校で」
笑顔で言ってリュックを手に取ったところで、今度は袖を掴まれる。
「もう帰っちゃう?」
「え、いや、その」
思わず固まってしまう。
こういうとき、一般男性というのはどう返答すればいいのだろう。
そんなことある?
え、そんな展開ある?
僕はどうすればいいか分からなくなっていた。どうしてそんな寂しそうな瞳を僕に向けてくるのか。どうして僕のシャツの袖を掴んでいるのか。僕はどう答えればいいんだ。
「・・・・・・えっと」
ゆっくりと袖から手を離してあげてそのまま帰るべきか。
じゃあ遠慮なくと座り直して談笑を続けるべきか。
「望くん・・・・・・?」
「は、はい」
僕は決断を迫られていた。
どうしたらいいのか頭の中をフル回転させて、
「じゃあ、その、もう少しだけ」
そして、僕は欲望に従って座り直した。
すると先輩は嬉しそうに、
「よかった。それじゃあ、お茶入れてくるね」
「ああ、はい」
「紅茶は飲める?」
「大丈夫です」
「じゃあ、用意するからね。といってもティーバッグなんだけど」
「い、いえ、おかまいなく」
どこか嬉しそうな先輩を見送り、一人になって「さて」と僕は考える。
欲望に従ったのはいい。先輩が喜んでいることはとても素晴らしい。
しかし、だ。
まったくその意図が掴めないでいる。僕なんかがいてもせっかくの憩いの時間が奪われるだけだろう。僕を留まらせることに何の意味があるのだろうか。
「・・・・・・もしや」
美人局、という単語が脳裏に過る。
いや、まさか、そんなことはあり得ない。
先輩がそんな悪事に手を染めるなんて想像するだけでも罪だ。僕という男は最低最悪な奴だと自分を罵る。でも、不良グループと未だ繋がっているという事実もまた頭から離れないでいた。もし先輩と肩がくっついているところであの不良達がこの部屋に飛び込んできたら、今度こそ僕は無事では済まない気がする。
「おまたせー」
僕の前に紅茶の入ったマグカップが置かれる。そしてお茶請けのバタークッキーも。
「ん? どうかした?」
「あ、ああ、その、どうでもいいこと考えてました」
大丈夫だ。
信じよう。もし何があったとしたら、今までの幸せの対価だと受け入れよう。
僕は僕の好きな人を信じる。そうだ、万が一に裏切られたとしても、それは僕の責任だ。
「で、えっと、これから何しましょうか」
「私の話に付き合ってくれるだけでいいよ。聞き流してくれればいいから。私、勝手にべらべら喋るし」
「先輩の話ならちゃんと聞きますよ」
そうして僕達はまたとりとめないやり取りで時間を重ねていく。
先輩も笑顔で、僕も笑っていた。
僕がくだらないことを言って、先輩はちゃんと聞いてくれていて。
きっと、これ以上にないくらい幸せな時間を過ごせていた。・・・・・・僕の恋は残念ながら実らなかったけど、こういう友人みたいな関係もいいかもしれない、なんて心の中で思う。
そうだ、そうだよ。
前にも考えていたじゃないか。これは推しのアイドルに熱愛報道があったと思えばいいのだ。そう考えれば多少は気持ちも楽になった。
なんてこと考えながら、僕達はテレビをつけてニュースの話をしたり、バラエティー番組で笑ったり、ずっと話題も尽きずに会話を続けていると部屋に掛けてあった時計は二十二時過ぎを差していた。
ふむ、流石にそろそろお暇するべきだろう。
「あー、先輩」
「んー、どうかした?」
「流石にそろそろ帰らないと」
「あ、親が厳しい?」
「いや、そんなことはないんですけど」
連絡さえすれば僕がどこかへ泊っても叱られることはないだろう。
「じゃあさ、泊っていきなよ」
「えっ?」
何を言っているんだこの人は。
「い、いや、いやいや、それは流石にまずいですって!」
「まずいって何が?」
「いや、それはですね、なんというか、モラル的にというか」
だってお互い年頃なわけで。
しかも異性なわけで。
何事も起こらないなんて確証はどこにもなくて。
「大丈夫だよ、大学の友達もたまに泊まることあるから予備の布団もあるんだ」
「そういうことじゃないですって」
「じゃあ、どういうこと?」
「それは・・・・・・」
僕の口から言うべきことなのだろうか。
だって、僕から何かするつもりなんてない。そんな覚悟も根性もない。
「えっと」
でも、普通はそうじゃないだろう。
僕だって聖人君子じゃない。普通に人間としての欲求はあるわけで、僕自身がそうじゃないとしても身体は勝手に動いてしまうかもしれない。先輩のことを僕は傷つけてしまうかもしれない。
「望くん?」
「あの、その」
でも、自制すればいいのだ。
そうすれば先輩と一緒にいられる。そんな甘い考えが僕の背中を押して、
「じゃあ、えっと、お言葉に甘えまして」
そんな言葉を発していた。
美人局なんて一瞬でも疑っていた自分はもういなくなっていた。
「よかった。じゃあ、ベッド貸すから使ってよ」
「い、いやいや、僕は布団で十分です!」
流石に先輩の普段使っているベッドで寝て理性を保てる自信はない。
「そう?」
「はい。・・・・・・あ、距離も最低限取っていただけると」
最低でも机を挟むぐらいの距離が良い。
「えー、つまんないなぁ」
「つまんなくないですよ」
それでなくても広いとは言えない部屋なのだ。机を挟んでようやく落ち着ける――わけがない。今日の僕はおそらく眠れないで夜を過ごすことになるだろう。
「でも、いいや。一緒にいてくれるなら」
「そんなに一人が寂しいんですか?」
僕は何気なくそんな質問を投げかける。
すると、
「寂しいよ」
先輩は頷いた。
「どうしようもなく寂しい。昔の話をした後とか思い出したときはとくにそう思う。私は一人でいられないんだって思うよ。自立できてなくて格好悪いけど」
「そんなことは思いませんけど」
「そう?」
「そうですよ」
誰だって寂しい夜はある、と思う。
僕は実家暮らしで一人になったことなんてほとんどないけど。一人暮らししたらホームシックにもなるかなとは考えることがある。誰だって一人でいるのはきっとつらいことなのだ。
「あ、そうだ」
「どうかした?」
「今日はともかく、これから寂しくなったら僕に連絡してくださいよ。メッセージでも、電話でも。夜でもそんなに遅くなければ基本的には返事できると思いますよ」
言いながら踏み込みすぎただろうかと思う。
でも、先輩は微笑んでくれて、
「いいの?」
「もちろんいいですよ」
「私、遠慮とかしないよ?」
「大丈夫です。あ、もし寝てたら朝一に連絡返しますんで」
「電話出てくれるまでコールするから」
それはちょっと困る。
「じゃあ、そうですね・・・・・・。そうだ、寝るときには先輩に一言入れてから寝ますよ」
「本当に?」
「本当です」
僕が先輩にできることの一つだ。
これくらいで先輩の役に立てるならドンと来い。
「そんなこと言って、今日はちゃんと泊まっていってくれるんだよね?」
「そ、それは、はい。そうします」
「うん、よろしい」
先輩はにこりと笑うと、
「じゃあ、色々準備しないとね」
それはそうだ。泊まる気なんてまったくなかったから用意なんて全くしていない。
僕達はまず近くのコンビニまで足を運んで下着と歯ブラシを買う。それからパジャマだ。僕は今着ている私服、シャツとジーパンのまま寝ても良かったのだが、
「あ、ちょうどいいのあった」
先輩がタンスの奥の方から一着の黒いジャージを取り出す。
「パジャマ用に随分前に買ったんだけど、ぶかぶかで着心地悪かったんだ。望くんなら着られると思う。一応フリーサイズだし」
渡されて身体に当ててみると、少し大きいくらいか? たしかに問題なく着られそうだ。
「じゃ、お風呂の用意してくるからね」
「あ、はい」
そう見送ってから、僕は固まってしまう。
そうか、風呂か。そんなこともあるのだった。
男の僕としては一日入らなくてもそこまで気にならないのだが、女性となるとそうはいかないだろう。僕が先に入るのか、それとも先輩が先に入るのか。どちらにしても精神衛生上よろしくない。
「あ、先輩、僕お風呂は――」
「うん、すぐに準備するから。あ、シャンプーとか石鹸は私の使ってくれる? タオルも用意しておくから」
「・・・・・・はい」
断れる気配なんてなかった。
やがて風呂の準備が出来て、僕は先輩が掃除してくれた湯船に沈む。足が伸ばせる広さはないけど、肩まで浸かるには十分の深さだ。
「ああ・・・・・・」
身体が温まる。石鹸の匂いは先輩の匂いだ。当たり前の話だが。
これを僕が使っていいのだろうか、いや、使っていいと言われたけども。僕が先輩と同じ匂いがするなんて烏滸がましいことではないだろうか。
「気にしすぎか・・・・・・」
長い長い息を吐きだした。
どうにもテンションがおかしい。
身体を洗って、頭を洗って、もう一度湯船に浸かって百秒数えてから僕は風呂を出る。新しく買ってきた下着と借りたジャージを着て先輩の待つ部屋へと戻ると、
「お風呂いただきました」
「うん」
先輩は机でピアスを外していた。
右耳は二つと少ない量だったが、左耳はその倍くらいの量が付いている。
「ん。どうかした?」
「あ、ああ、すみません」
じっと見入ってしまった。
「気になる? ピアス」
「え、ええ、まあ」
これで元カレの趣味とか言われたらショックで吐血しそうではあるが。
「どうして付けてるのか、聞いてもいいですか」
僕の質問に先輩は頷いて、
「なんかさ、格好良くない?」
「格好いい?」
「そ、着飾った自分がさ。少し強くなれたとか、そういうんじゃないけど、今までの自分と変わっていくような感じがしてさ」
「なるほど?」
「わかってないでしょ」
「・・・・・・すみません」
僕としては自分の身体に穴を開けるだなんて怖くてできない。これといってピアスに憧れもなかった。
「要するに着飾った私は格好いいってこと」
「たしかに先輩のピアス似合ってますけどね」
「ふふふ、ありがと」
そんな話をしているうちに先輩はピアスを全て外し終えて、
「それじゃ、お風呂入ってくる」
「は、はい」
「望くんはのんびりしてて。テレビとか自由に観ていいから」
「はい、ありがとうございます」
今日はチェックしていたアニメの放送はあっただろうか。そんなことを考えていると、
「あ、望くん」
「はい?」
「お風呂は覗いちゃダメだから」
「そ、そんなことしませんよ!」
そう言う僕は一瞬で真っ赤になっていたことだろう。
ぶんぶんと手を振って叫ぶように言うと、先輩は面白そうに笑って「いってきます」と風呂場の方へ入っていった。
僕はそれを見送ってから、深い溜息を零してソファに沈み込む。
テレビを観る気なんてすっかりなくなって、僕はおとなしくスマホを弄ることにする。
「あ」
サークルのグループトークでは文化祭で使う展示物についての書き込みがあった。サークルメンバーから展示物を募っているらしい。
僕は何か出せるものがあったっけ。
ゲームの特典に付いていたタペストリーか、ロボットアニメにハマって勢いで買ったプラモデルとかそういうものでいいのだろうか。
「ま、後でいいか・・・・・・」
どうせ自宅に戻らないと考えられないことだし。
今度はSNSでどうでもいいニュースや発言を見ながら時間を潰す。こうしていると自宅にいるときとやっていることは同じで心も落ち着いてくる――、
「わけがないんだよな!」
聞こえてくるシャワーの音。
自分の部屋と違う可愛らしい家具。
部屋を満たす優しい匂い。
当然のことだが何もかもが僕の部屋と違う。落ち着きを装ってみたが、まったく落ち着けるわけもない。
なんでこんなことになってしまったのか。
風呂から出たおかげか思考回路が冷静さを取り戻している。
有無言わさず帰ればよかったのだろうけど、しかし、先輩の言葉を無下にすることも僕にはできない。こういったときどうすればいいのかまったく見当もつかないでいた。
「誰かに相談することもできないし・・・・・・」
松野や宮村達サークルメンバー、中学、高校の友人達の顔が浮かぶ。けれども、何と相談すればいいのか。「女性の家に泊まることになったんですがどうすればいいですか?」なんて誰がまともに取り合ってくれるのだろう。
「はあぁぁ・・・・・・」
今日何度目か分からない溜息。
ポジティブに考えよう。
僕は今大好きな先輩と一緒の部屋で眠ることが出来るのだ。これ以上にない幸せだ。
それに先輩の作ったご飯も食べて、風呂も入った。歯だってシャワーのついでに磨いた。後は本当に寝るだけなのだ。そう考えれば気持ちも幾分かマシになる、気がする。
やがてシャワーの音が止む。
そろそろ先輩も出てくる頃だろうか。時計を見ると思いの外時間も経っていた。
ガチャリとドアが開く音がする。それからほんの少しの間を置いて、
「お待たせ」
先輩の声が耳に入ってくる。
「あ、いえ、いえ・・・・・・?」
僕は思わず固まってしまった。
・・・・・・が、そういう場合じゃない。顔を逸らして目を強く瞑った。
先輩は肩から掛けたタオルとチラッと見えるパンツしか穿いてなかったのだ。
「な、それ、あの、ふ、服は!」
「私、寝る前は裸の主義だって言ったら信じる?」
「し、信じませんよ!」
それが事実だとしても今日は僕がいるんだ。寝巻くらいは普通着るだろう。
僕の動揺なんて関係なく、ぺたんぺたんと先輩の足音が近づいてくる。やがて僕の頬に先輩の手が触れた。そして、そのまま体重が掛けられる。先輩が僕の上に乗ったのだ。
「ど、どういうことなんですか」
僕は更に強く目を閉じて言う。
「どうもこうも、男と女が泊まるってこういうことだよね?」
「知りませんよ!」
「ねえ、こっち見てよ。望くん」
「そんなことできません!」
いや、本当はしたい。
今すぐにでも目を開けてしまいたい。
先輩のことを見て、触って、無茶苦茶にしたい。そんな衝動を理性が抑えつけている。
「どうして・・・・・・こんなこと・・・・・・」
「理由がいる?」
「いりますって」
「強いて言うなら、お詫びかな」
僕の薄く痣が残った頬を撫でて、
「私、これくらいしかできないし」
「そんなことないですし、それに、これは先輩とは」
「関係あるよね」
たしかに関係ないとは言えないかもしれないけど、それでも先輩が気にすることじゃない。こんなことをしてもらう理由にはならない。
「ねえ、私のこと、嫌い?」
「それは・・・・・・」
嫌いと言えば解放されるのだろうか。
「それは・・・・・・」
でも、僕は嘘でもそんなことは言えなかった。それだけは嘘を付きたくなかった。
「・・・・・・先輩」
緊張している場合じゃない。僕は今こそ自分の想いを伝えないといけない。
「なに?」
「僕、先輩のこと好きです」
だから、正直に言った。
はっきりと口にした。
「ずっと好きだったんです、中学生の頃から片思いしてました。卒業式の日に告白できなくてひどく後悔してました。それから高校に入っても、大学に入っても、先輩のことを忘れたことは一度もありません」
気持ち悪い告白だ、と自分でも思う。でも止まらない。
「あの日、あの喫煙所で先輩と再会したとき奇跡だと思いました。連絡先を交換出来て、話をするようになって、僕は毎日のように浮かれていました。トークの履歴をみてずっとニヤニヤしてたんですよ、僕」
思い出して思わず笑ってしまう。
僕はずっと先輩のことが好きだった。
思い出しても、思い出しても、先輩を悪く思ったことなんて一度もない。
「先輩、僕はあなたことが好きです。誰よりも好きです。今も昔もずっと好きです。好きだからこんなことしてほしくないんです」
「どうして? 私が好きなら・・・・・・」
「だって、先輩は僕のこと好きじゃないですよね」
自分の発した言葉が心を抉る。
でも、それは事実なのだ。
「そんなことないよ」
「だけど一番じゃない」
「それは」
「僕は、一番になれないと先輩のこと抱きしめられません」
「・・・・・・そっか」
先輩が僕から降りた。僕はジャージの上着を脱いで目を閉じたまま先輩に差し出す。
「これ、着てください」
「・・・・・・うん」
ほんの少しして先輩が「いいよ」といったのでようやく目を開く。
部屋の明かりが少し眩しいけど、ちゃんとジャージを着た先輩がいた。丈が長いおかげでパンツも隠れていて目に毒な部分は薄れていた。それでも生足は刺激が強いけども。
「・・・・・・」
僕はソファから立ち上がって、部屋の隅に畳んでおいた私服に手を伸ばす。
「どうしたの」
「今日は帰ります」
「ど、どうして」
「いやだって、僕みたいのが泊まっていたら気持ち悪いじゃないですか」
自分でも気持ち悪い告白はしたつもりだ。
こんな人間を傍には置いていたくないだろう。電車はもうないだろうけど、一時間も歩けば最寄り駅につくはずだ。別に歩けない距離じゃない。
「どうして?」
「どうしてって、それは」
「私のこと、嫌いになった?」
何故か先輩は泣きそうな顔をしていて、
「一緒にいるのは嫌?」
「ま、まさか。そんなことないです」
何か勘違いさせてしているのかもしれない。
「先輩こそ嫌じゃないですか。僕みたいなやつが一緒にいるんですよ? 普通に気持ち悪いじゃないですか」
「私は、嬉しかった」
「嬉しかった?」
「私、誰かに好きだってちゃんと言われたことなくて」
「そんなまさか」
家族だっているし、誰からも尊敬されていた。
彼氏だっていたことがある。
そんな先輩が、愛されている先輩が『好き』って言葉を受けたことがないだって? 僕はにわかに信じることができなかった。
「私、頑張ってきた。人に好かれるように、家族に好かれるように、でも、誰も私を好きになってくれなかった。憧れと都合の良さを向けてくるだけ。私は誰からも愛されていないんだって・・・・・・」
「そんなことないですよ!」
僕は先輩の前に立ち、そして抱きしめた。
「一番じゃなきゃ、抱きしめないんじゃなかったの?」
「じゃあ、僕を一番にしてください」
我ながら無理な要求をしているなと思いつつ、それでも腕は離さない。
僕は強く強く先輩を抱きしめる。
「僕は先輩のことが好きです。
尊敬される先輩が好きでした。
誰からも愛される先輩が好きでした。
それが、そうじゃないとしても、僕はあなたのことが好きです。
誰からも言われないなら僕がその分だけ好きだって言います。
僕はずっとあなたのことだけ見ます。あなたのことが大好きだから」
もう照れることはない。ここまで来たら振り切ってしまった。僕は何度でも先輩に自分の想いを伝えることが出来る。
「望くん」
「はい」
「望くん・・・・・・」
「はい」
僕の胸の中で嗚咽が聞こえてきた。
泣かしてしまったかもしれない。でも、これはきっと悪くない涙だと自己解釈して抱きしめ続ける。ぎゅっと腕に力を入れる。
「私、面倒だよ?」
「はい。そういうところも絶対好きです」
「依存するし」
「依存してください。そんなところもめちゃくちゃ好きです」
「性格悪いし」
「そんなところも好きですけど、あなたの性格が悪かったら僕なんて最悪です」
「また不良に絡まれるかもしれない」
「その時は大声で助けを呼びます」
「元カレのこと、忘れられないかもよ」
「僕が忘れさせます。先輩がいつか忘れるだけ僕は先輩のこと好きだって伝えます」
正直なところ自信はない。先輩とその元カレにどれくらいの繋がりがあったかも分からないのだ。でも、好きだって言葉を伝えないやつに、他の女を作っていたやつには絶対に負けたくない。
「・・・・・・見る目がないな、望くん」
「そんなことないですよ」
「だって私みたいの選ぶんだよ。見る目ないよ」
「絶対にそんなことありません。あなたほど魅力的な人を僕は知りません」
僕の本心だ。
これから先も先輩ほどの女性に出会えることはない。確信して言える。
「後悔しないでね」
「絶対しません」
「ばーか」
そう言って、先輩は僕に顔を向ける。
目を閉じていて、僕は何をすれば分かって吸い寄せられるように顔を、唇を近づける。
それは初めての経験だ。
フィクションではいくらでも知っていた。
これだけ好きと言えば告白にも慣れる、でもキスという行為が現実になると尋常じゃなく緊張して、僕は心臓が爆発しそうになったけど、先輩はどこか余裕な表情で笑って、
「望くん、緊張してる」
「そ、そりゃ、しますよ」
「経験の差だね」
「これから先輩で積むことにします」
「先輩?」
言い返されて、僕は言い直すことになる。
「あーっと、その。明乃さん」
「呼び捨てでいいのに」
「慣れたらそうします」
「敬語もいらないよ」
「慣れたらやめます」
先輩はそんな僕に「先が長そう」と呆れた様子で笑って、僕も笑う。そんなに長くないですよ。頑張って練習します。ずっと明乃さんが傍にいてくれれば。
「ふふふ、ねえ」
「何でしょう」
「髪、乾かしてよ」
「髪ですか」
たしかにほんのりと髪が湿っている。それくらいならお安い御用だ。
「はい、これ。ドライヤー」
僕はドライヤーを手渡されて、
「でも、いいんですか。経験ないんで上手くできないかもですよ。僕はいつも自然乾燥なんで」
「雑でもいいよ、そんなに長いわけじゃないんだし、髪乾かすだけだから」
「まあ、それじゃあ」
僕はドライヤーのスイッチを入れて、明乃さんの髪に温風を当てていく。
「望くん」
「はい?」
僕は先輩の髪に触れること、ちらちらと見えるうなじにドキドキしていたけど、それを気力で隠して返事をする。
「ありがと」
「え、別にいいですよ。これくらい」
「そうじゃなくて。って、それもあるけど」
「はい」
「私のことをずっと好きでいてくれたこと」
「そんなこと」
感謝されるようなことじゃない。僕が勝手に想っていただけだ。
「嬉しかったから。本当に。これからも好きでいてくれる?」
「そんなの」
言われるまでもない。
「今まで勝手に好きだったんですよ。もちろんです、これからもずっと好きですよ」
「私より魅力的な人が現れても?」
「大丈夫ですよ」
あなたほど魅力的な人はいませんから。
そんな話をしているとやがて髪も乾いて、僕はドライヤーを止める。
「うん、ありがと」
「いえ」
「じゃあ、そろそろ寝よっか」
そう言われた。
「あれ、もういいんですか」
他にも色々することがあると思っていた。
「んー? 何か足りないことがあるのかな?」
悪戯に笑う先輩に僕は両手を振って、
「いや、その、化粧水とか、パックとか」
「あ、そういうことね。うーん、することもあるけど。今日はいいや。少し眠いし」
「そ、そうですか」
それならと、僕は先輩の用意してくれた布団を広げようとしたところで、
「そのお布団は禁止でーす」
「え?」
まさかそのままフローリングに寝ろと?
「望くんには私と一緒にベッドで寝てもらうから」
「え、い、いやいや、それはまずいですよ!」
「まずくないよ。私達、彼氏彼女なんでしょ?」
「え、いや、その、そうだとしても付き合ってすぐに、その、同衾なんて」
「いいの!」
持っていた枕を奪われて、明乃さんの枕の横に置かれる。
「・・・・・・てか、そもそも僕達って彼氏彼女なんですか」
「今の流れでそうじゃないと思う?」
「いや、そんなことは」
思わない、というか、思いたくないけども、明乃さんは僕の彼女になってくれるのだろうか。
「だって、その、僕ですよ?」
「知ってるよ。望くんだよ」
「そんな僕が、その、か、彼氏ってどうなんですか」
「うーん」
明乃さんは少しだけ悩んで。
「ありかな」
微笑んでそう言った。
「だって私の一番になってくれるんでしょ?」
「それはもちろん」
そうなるつもりだ。
「それで? そんな私と一緒に寝るのは嫌?」
「そ、そんなことないですけど」
最高の気分だ。さっきから有頂天だ。こんな幸せが続いていいのかさえ思っている。
しかし、これ以上重ねる言葉は思いつかなくて、
「じゃあ、失礼します・・・・・・」
僕は先にベッドへ入った。そこは明乃さんの匂いに包まれていて頭がおかしくなりそうだった。そんな僕を他所に明乃さんは電気を消してからベッドに入ってくる。当然広くはない、身体のあっちこっちが当たってその度にドキドキしてしまう。
「望くん、心臓すごいことになってる」
「それは自覚してます」
バクバク鳴っていてうるさいくらいだ。
背中合わせだというのに背中が触れ合っているだけで鼓動が高鳴ってしまう。
「しばらく眠れそうにないね」
「そ、そうですね」
そもそもちゃんと眠れる自信なんてないけど。
「ねえ」
「なんです?」
「なんか話してよ」
「話ですか」
「うん。どんなことでもいいから」
そう言われても何を話せばいいのか。
「何かジャンルとかないんですか」
「ないよ。望くんが話したいことを話して」
「面白い話なんてできないですよ、僕」
僕がそう言うと、頷いた気配を感じた。
「じゃあ、せっかくなので僕がどれくらい明乃さんのこと好きなのか話すことにします」
「それは恥ずかしいなぁ」
明乃さんはクスクス笑って、
「でも、いいよ? 聞かせて」
「いいんですか? 僕もかなり恥ずかしいんですけど」
「望くんが恥ずかしいなら尚更聞きたいな」
意地悪な人だ。
でも、そんなところも好きなのだ。僕はコホンと咳払いをして、
「まずは出会いからですね」
「保健室のベッドで狸寝入りしてたところを私がカーテン開けたんだよね」
「そうですそうです。最初は何だこの人って思いましたよ」
「そうなんだ?」
「でも、それはすぐになくなりました」
誰からも愛される姿に、分け隔てない姿に。
「僕はあっという間に恋に落ちましたからね」
「具体的には?」
「そうですね・・・・・・。あ、一度屋上に続く階段であったことがあったじゃないですか」
「あー、そんなこともあったね」
あれはたしか珍しく体調不良の人が多くて保健室が使えなくて、仕方なしに僕はサボり場を探してたどり着いた階段。先輩はそこでサボって読書していたのだ。
「あの時にはもう好きでした」
なんて、嘘だ。「なんだこの人」って出会った後、その後の会話でもう好きになっていた。
でも、そんなのは正直に言えない。ずっと隠したい気持ちだ。
「お、思いの外早いね」
そんな僕の気持ちを知ってか知らずかそんなことを言う。
「それからはずっと片思い続きで大変でしたよ。でも、告白する勇気なんてなかったですから、先輩の姿を見る度に一人でドキドキして」
「あーあ、告白してくれたらよかったのに」
「でも、フラれてましたよね?」
「それは分からないよ」
「いやいや、それくらいは分かりますよ」
先輩は僕のことを弟分扱い、せいぜいサボり仲間だと思っていたから。
「僕はずっと先輩のことが好きでした。先輩が卒業してからずっと好きで、先輩の頃ばかり考えていましたし、高校でもそれは変わりませんでした」
「仲の良い女子とかできなかったの?」
「いなかったことはないですよ。委員会が一緒で話かけてくれる人とかいましたし、女友達もできなかったわけじゃないです。でも、やっぱり僕の中で先輩がずっと一番でしたから」
「あーあ、愛されてるね、私」
「はい」
ずっと、今までずっと好きだったのだ。
そしてこれからもずっと好きでいるだろう。これはもう愛に等しい。
「やっぱ気持ち悪いですよね、僕」
「そんなことないよ」
先輩は寝返りを打って僕は背中から抱きしめられる。心臓がまた跳ねるけど、拒絶はできなかった。
「望くん。私、望くんのこと好きになるよ」
「そうなってくれたら嬉しいです」
「今も結構好きだけど」
「本当ですか」
「本当だよ。でなきゃ一緒に寝ないから」
「それは、その、光栄です」
それなら本当に嬉しい。
「でも、もっと好きになるからね」
「はい、僕ももっと明乃さんのこと好きになります」
「自分の愛に潰されちゃいそう」
「大丈夫ですよ、その愛を明乃さんが受け取ってくれれば」
「生意気になったなぁ」
「え、ダメでした?」
「いいよ、その代わり、私のことずっと好きでいてね」
「はい」
それはもちろんだ。
僕は明乃さんだけを好きでい続ける。それだけの気持ちと覚悟がある。
「私のこと、裏切らないでね」
「絶対に裏切りません、裏切るなんて考えもしません」
「望くんなら信じられるな」
「はい、信じてください」
それから他愛のない雑談を重ねていると、やがて寝息が聞こえてきて。
「おやすみなさい、先輩」
僕はそう告げると、背中に伝わる温もりを感じながら目を閉じた。