宵越し無用一
「某殿は計算では測れませんからね」
サイがそう言って口元を微かに緩め、クチナシから手渡されたばかりの財布を懐に収めようとした、その時だった。
「――おっとサイ、そいつを仕舞うのはまだ早いぜ!」
某は不敵な笑みを浮かべると、サイの持つ財布をひょいと奪い取った。某の網膜に表示された残高は、クチナシの粋な計らいによって、団子代には多すぎるほどのコバンが輝いている。
「某殿、何を言い出すんですか。あっしの計算じゃあ、そのコバンでレーザー日本刀のフルチャージ代を引いても、しばらくは飯に困らないはずで」
「ハッ! 宵越しのコバンは持たねえのが江戸の遊び人ってモンよ! こんだけありゃ、次はもっと面白えことができるってもんだ!」
某は懐から取り出したサイコロを夜明けの空に投げると、まだネオンの光がギラギラと明滅する歓楽街の奥へと一目散に駆け出した。
「やれやれ。某殿の面白えはいつも計算が意味を成しませんね……」
サイは重いため息をつきながらも、笠の縁を指で少し持ち上げ、いつもの冷徹な足取りでその背中を追いかけた。
二人が飛び込んだのは、怪しげな電子ノイズとジャンクな煙が立ち込める、地下の違法ハッキング賭場。空中には立体ホログラムのサイコロと、デジタルな「丁」と「半」の文字が毒々しく浮遊している。
「へいへい、張った張った! 丁か半か、電子のダイスが運命を決めるよ!」
カラクリ胴師の男が電子的な声を張り上げる中、某は賭場の中央へ堂々と割り込んだ。
「よしサイ、まずは景気良くいこうじゃねえか! 丁だ丁だ、俺の魂が丁と言っている!」
某は懐から実体化したコバンを掴み、躊躇なく「丁」のデータエリアへ全額の半分をベットした。
「某殿、いつも直感だけで賭けるのは効率が悪いと言ってるでしょう。あっしの電脳の確率計算に言わせりゃ、ここは――」
「ハハハ! 計算計算ってうるせえな、スリルのねえ博打なんて、ただのシステムエラーだろ!」
ビチチッ! と電子ダイスがホログラムの茶碗の中で静止する。
『――丁! 丁の勝ちだ!』
「ほら見ろサイ! 俺の勝ちよ!」
「おや……あっしの計算外。相も変わらず運だけは良いようで」
最初は、天下御免の遊び人の強運が面白いように炸裂した。
某が直感で賭けるたびに、財布のデジタルインジケーターの数字は、みるみるうちに跳ね上がっていく。
周囲のサイボーグジャンキーたちからも歓声が上がり、賭場は二人の快進撃に湧き上がっていた。
だが――その時、サイの電脳が、賭場の中心部から流れる奇妙な電子データ波形を検知した。
「……某殿。ちょっとお待ちを」
サイが笠の奥の鋭い視線を、カラクリ胴師の指先へと向け、低く呟いた。
「あっしの電脳が、妙なスコアの偏りを弾き出しています。――この賭場、ただの勝負じゃありませんぜ」
「あん? どういうことだ、サイ」
某は手元の勝ちコバンを弄びながら、片眉を上げる。
「カラクリ胴師の指先から、外の巨大サーバーへ向けて暗号化された通信データが飛んでます。……これじゃあサイコロが茶碗の中でどう転がろうが、胴元のシステム一つで出目を『丁』にも『半』にもデータ操作できる。客が絶対に勝てない仕組み(イカサマ)ですよ」
サイの電脳ディスプレイに、ハッキングして暴き出した賭場の裏プログラムが流れる。
そのシステムコードの最深部に刻まれていたのは、電脳江戸を裏で操る悪徳大名メガコーポの紋章だった。
「……発信元はいつもの越後屋。下層長屋の貧しい民から、合法的にコバンを吸い上げるためのイカサマ装置ですね。あっしたちの勝ちデータも、次の一手で全部「半」に書き換えられてゼロになる計算になっている様子で」
サイの冷徹な報告を聞いた瞬間、某の顔からいつものお気楽な笑みが綺麗に消え失せた。
「……ハッ。汚えシステムに、俺の魂をデータ操作でかすめ取られるなんてのは、最高に『面白くねえ』な」
某は手の中にあったコバンを床へと軽く放り投げた。カラン、と虚しい電子音が響く。
そして、不敵な笑みを、より一層深く、鋭く浮かべながら、着物の片肌をバッと脱ぎ捨てた。
その瞬間、某から放たれた圧倒的な熱量と気迫に、カラクリ胴師の電子音声が恐怖でバグを越した。
「ヒッ……! し、侵入者がシステムを検知シタ! 削除シロ、ただチにハイジョセヨ!!」
胴師が叫ぶと同時に、賭場の壁が一斉にスライドし、銃器を構えた越後屋のサイバー刺客たちと、警備用ドローンがドッと四方八方から飛び出してきた。
完全に退路を断たれた、絶体絶命の包囲網。
だが、二人の顔に焦りの色は一切なかった。むしろ、お互いの背中を預け合うその瞬間を、ずっと待っていたかのように軽やかだった。




