雲中の口無鳥一
効率とスコアの光が網の目のように交差する電脳江戸の夜。だが、高層ビルの狭間にある深い路地裏にまでは、その眩しいネオンも届かない闇の中、そこだけ異空間のように、甘く、妖艶な花の香りが漂っていた。
クチナシの花の香りだ。
「――待たせたねぇ、お二人さん」
闇の奥、電子煙管を燻らせる一人の女がいた。
暗い路地裏に彼女の姿が映し出される。本心を決して口にしない冷徹な情報屋――「クチナシ」。
ハッキングのデータ量に応じてネオンの柄を変える豪華な着物を艶めかせ、彼女は瞳の奥に緑色の電子コードを走らせる。
「フッ、美女の呼び出しとありゃあ、地獄の果てでも面白えが続くもんだ。……なぁ、サイ」
某は胸躍る気持ちを抑えれず、不敵な笑みを浮かべて腕を組む。
「あっしに言わせりゃ、日暮れ時の路地裏なんてのはろくな仕事じゃありませんよ。……それで、クチナシの姐さん。わざわざあっしたちを指名した裏の御用ってのは?」
サイが笠の縁を指で少し持ち上げ、鋭い視線でクチナシを射抜いた。
クチナシはフッと電子の紫煙を吐き出し、空中に妖しく光るホログラムの映像を投影する。そこに映し出されたのは、奇妙なデータ波紋だった。
「ネオン街の奥で出回っている、幻の違法プログラムさ。効率とスコアの呪縛を消し去る代わりに、人間の脳を完全に廃人にする電子ドラッグ。……これのマスターデータを回収、あるいはその場で破壊しておくれ。開発者のアジトは、もう突き止めてある」
クチナシはキセルを弄び、大人の余裕たっぷりに微笑む。
「こんなデータが巷に出回ったら、うちの商売もあがったりさ。お前さんたちがどうなろうと、データが処理できれば誰でもいいんだけどねぇ……。やってくれるかい?」
商売あがったり、か。
クチナシは冷酷な損得勘定のように言い放ったが、サイの電脳は、その綺麗な嘘の裏側を瞬時に弾き出していた。
この電子ドラッグによって、彼女がかつて深く贔屓にしていた客が、脳を焼かれて廃人にされたこと。これはビジネスではなく、彼女の静かな、しかし深い復讐なのだと。
サイはすべてを察しながらも、口元を微かに緩めるだけで野暮なことは言わない。
「はいはい。電脳江戸のトップ花魁を味方に付けときゃあ、あっしたちの懐の『計算』も楽になりますしね。……お人好しな高額報酬、きっちり頂きますよ」
「ハッ! 誰でもいいだと? 寂しいこと言うんじゃねえよクチナシ!」
某がバッと紅蓮の扇子を誇らしげに胸に当て、満面の笑みを浮かべた。
「この街の冷てえルールをブチ壊す電子の毒か。……そいつブチ壊すってのは、最高に面白え商売じゃねえか。乗ったぜ!」
クチナシは一瞬だけ瞳を丸くし、それからクスクスと綺麗に笑った。
その笑顔はまさしく彼女の表の顔を思い浮かばせる。電脳江戸でも最高峰おいらん「十六夜太夫」。
「本当に……退屈しなくて、最高におバカな男たちだねぇ。――ほら、データの場所さ。行ってきな」
空中を舞うクチナシの香りの煙が、二人の網膜にアジトの座標を優雅に映し出す。二人は背中を向け、ネオン街のさらなる深淵へと歩き出した。




