金魚迷惑二
そこにあったのはいつも通りの見慣れた景色ではなかった。
「おいおい……ありゃあ、かなり盛大にやっちまってるな」
某は腕を組み、目の前の光景に思わず呆れ声を漏らした。
長屋の伝統的な黒瓦の屋根。そこに、夜空を泳いでいたはずの巨大なホログラム金魚が、頭からガッツリと突き刺さっているのだ。
本来なら光のデータに過ぎないはずの金魚だが、理不尽なシステムエラーのせいで中途半端に質量を持ってしまったらしい。
バチバチ、ジジジ……と耳障りな電子ノイズの火花を撒き散らしながら、巨体を苦しげに悶えさせ、尾ひれを激しくバタつかせている。その拍子に、風情ある瓦がパラパラと路地裏に剥がれ落ちていった。
「実体化コードのエラーですね。完全に長屋の防護回路と噛み合っちまってる、あれを力任せに引っぺがしたら、屋根どころか長屋が丸ごとひっくり返りますね」
サイが笠の縁を指で少し持ち上げ、冷徹な視線で状況を分析する。
「あぁ、お前さんたち、頼んだよ! 早くあのバカ魚をなんとかしておくれ!」
後ろから、ネオン提灯を掲げた大家の婆さんがハラハラしながら声を張り上げる。周囲の窓からも、長屋の住人たちが不安げにこの「金魚迷惑」な大騒動を見守っていた。
タイパとスコアだけが重視されるこの冷めきった街では、貧しい長屋の瓦などバグ一つで踏みにじられても、誰も文句は言えない。
だが――この二人に、そんな冷たい計算は通用しない。
「フッ、心配すんじゃねえよ大家の婆さん。……おいサイ、金魚一匹に俺たちの長屋をナメられてちゃあ、江戸っ子の名が廃るってもんだよな」
某は不敵な笑みを浮かべ、着物の片肌をバッと脱ぎ捨てた。
「へいへい。団子3コバン分の仕事、キッチリ片付けましょう」
サイが刀の鞘にそっと手をかける。
集まったギャラリーの視線が一斉に注がれる中。
某は紅蓮の如き真っ赤な扇子をバッと広げて天を指す。
足は大きく踏み込み、不敵な笑みを浮かべる。
その背中で、サイは刀は抜かず鞘に手をかけ、笠の縁を指で少し持ち上げる。
視線は鋭く、口元だけが微かに笑う。
降り注ぐネオンの雨の中、二人の気迫だけが、無駄なほどに熱く圧倒していた。
「――おい金魚、天下の電脳江戸の真ん中で、俺たちの長屋にケチつけてんじゃねえぞ!」
某が吠えると同時に、その構えから爆発的な熱量が放たれた。広げられた紅蓮の扇子が、あたりの空気を蒸発させるほどの高熱プラズマを帯びてギラリと輝く。
某は大きく地を踏み鳴らし、バグ金魚の懐へと突っ込んだ。
「ハッ! 景気良く踊りやがれッ!」
扇子を一閃。烈火のごときプラズマの波動が、瓦屋根に深く突き刺さっていた巨大金魚を根こそぎ煽り、宙へと強制的に引き剥がす。バグったデータが悲鳴のような電子ノイズを響かせ、夜空へと舞い上がった。
「サイ、今だ!」
「――御意」
背後から放たれた合図に、サイの口元がニヤリと歪む。
金魚が空中で体勢を崩したその一瞬、サイの身体から完全に気配が消えた。
「……すぅ」
深く息を吸い込み、親指で刀のハバキを押し上げる。
刹那。
シャァァァン! と、雨の音すら掻き消す電子高周波の駆動音が響き渡った。
抜刀。それは目にも留まらぬ、まさに【静かなる一閃】。
サイの刀から放たれた電波の刃筋が、夜空に綺麗な弧を描いて、巨大金魚の輪郭を真っ二つに両断した。
刀が鞘に収まり、パチンと静かな音が鳴る。
その瞬間、長屋を脅かしていた巨大な金魚は、バグの光を失い、ただの美しいホログラムの桜吹雪へと分解されていった。ネオンの塵が夜空へと静かに溶けて消えていく。
「ふぅ……。終わってみれば、ただの雑魚だったな」
某は扇子をパタパタと仰ぎながら、不敵な笑みで片肌を戻した。
「まったくです。これで長屋の夜も、少しは静かになるといいのですが」
サイは笠の縁を深く被り直し、いつもの冷徹な電脳用心棒の顔に戻る。
遠くから、長屋の住人たちの歓声と、婆さんの「ありがとよー!」という叫び声が響いてくる。
効率とスコアに冷え切ったこの電脳江戸で、3コバンの人情が、確かに一つの小さな風情を守り抜いた瞬間だった。




