Node6.4:見えない背中、託されたリズム
ラスベガスの狂騒から数日。成田空港に降り立った瞬間に感じた、あの湿り気を帯びた日本の空気は、遥を強制的に「日常」へと引き戻した。深夜。時差ボケで中途半端に目が冴えてしまった遥は、喉の渇きを覚えてリビングへと降りていった。
キッチンでは、母親が静かにハーブティーを淹れていた。
「あら、遥。眠れないの?」
「……うん。ちょっと、ベガスのライトがまだチカチカしてる感じ」
遥はスツールに腰を下ろし、母親が差し出した温かいカップを両手で包み込んだ。湯気が鼻先をかすめ、張り詰めていた意識がようやく緩んでいく。
ふと、遥の脳裏に「X」——父、大樹のあの圧倒的なプレイが蘇った。仮想世界で見せた、あの冷徹なまでの正確さと、その裏に隠された激情。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「お父さんって……昔、バスケットボールやってたの?」
母親は手を止め、少し意外そうに目を丸くした。それから、くすりと小さく笑う。
「あら、今頃気づいたの?運動神経はいいのに、家ではゴロゴロしてるから、ただの怠け者だと思ってたでしょ」
「……まあ、正直そう思ってた。でも、ベガスで……あ、いや。なんか最近、お父さんの歩き方とか、ふとした時の動きが、なんかバスケ選手っぽいなって思って」
母親は窓の外の夜闇を眺めるようにして、懐かしそうに目を細めた。
「あれでも昔のお父さんはね、それはもうかっこよかったのよ。コートに立つと別人でね。どんなに大きな相手でも、鋭い眼光で真っ向から切り込んでいく……。**周りの人たちからは『SAMURAI』なんて呼ばれて、ちょっとした有名人だったんだから。**あなたが生まれる前は、それこそ寝ても覚めてもバスケばっかり。私もよく試合の応援に行かされたわ」
「へえ……『SAMURAI』か。今のお父さんからは全然想像つかないな」
「でしょ。 でもね、遥。あなたが生まれて、少しずつ物心がつくようになった頃、お父さんは家の中からバスケに関するものを、全部隠しちゃったのよ」
遥はカップを唇から離した。
「隠した?なんで?」
「あなたが、お父さんの真似をして、転がっていた古いボールに興味を示したからよ」
母親の話によれば、遥がまだヨチヨチ歩きだった頃、大樹が大事にしていた革製のバスケットボールを、遥は小さな手で一生懸命に追いかけていたのだという。その姿を見た時、大樹の顔に浮かんだのは喜びではなく、ひどく複雑で、胸が締め付けられるような「懸念」だった。
「お父さんはね、自分がバスケの世界で苦労したからこそ、わかっていたの。この競技において『高さ』がどれだけ残酷な壁になるかを。あなたが自分に似て、小柄な体格になるだろうことも予測していたんでしょうね。バスケを好きになればなるほど、いつか必ず、自分の体の小ささに絶望する日が来る……。お父さんは、あなたがそんな風に悩む姿を見たくなかったのよ。だから、バッシュも、ボールも、トロフィーも、全部屋根裏の奥にしまい込んでしまったわ」
遥は黙って話を聞いていた。150センチの自分。リアルなコートで、何度見上げても届かなかった高いリング。何度も浴びせられた、絶望的なブロックショット。父が恐れていた「現実」を、遥は身をもって知っている。
「でも、私が小学生の時に『ミニバスをやりたい』って言い出した時は?」
「あの時のお父さんの顔、見せたかったわ。まさに『血は争えないか』って、真っ青な顔で天を仰いでいたんだから。お父さんなりに、あなたの前からバスケを遠ざけてきたつもりだったのに、結局あなたは自分の意志で、その扉を叩いた。それはもう、あの人にとっては嬉しい誤算というより、逃れられない宿命を見せつけられたような衝撃だったみたい」
母親は椅子を引き、遥の隣に座った。
「知ってた?あなたが小学校、中学校の試合に出る時、お父さんは『仕事が忙しい』って言って一度も応援に来なかったでしょ?」
「うん。いつも、ビデオ撮っといてって言われるだけだった」
「嘘よ。あのお父さん、実は毎回、こっそり会場に行っていたのよ」
遥は目を見開いた。
「えっ……?一度も見かけなかったよ?」
「体育館の隅っこの、一番目立たない場所で、深く帽子を被ってね。まるで不審者みたいに、こっそりあなたのプレイを見守っていたわ。ある時は、遠征先の地方まで、一人で車を飛ばして追いかけていったこともあるんだから」
母の言葉に、遥の鼻の奥がツンとした。体育館の隅。影の中にいた父。彼はどんな思いで、自分よりも遥かに大きな相手に立ち向かう娘を見ていたのだろうか。
「私はね、『そんなに気になるなら、直接教えてあげればいいのに』って何度も言ったのよ。あんなに理論派で、バスケの技術なら誰にも負けないんだから。でも、お父さんは首を振るだけだった」
「……どうして?」
「『小さな体で大きな連中と渡り合うには、人並み以上の、血の滲むような努力がいる。それは体にとてつもない負担をかけるし、精神だっていつか擦り切れてしまう。無理をして、一生残るような怪我でもしたら……俺は、娘にそんな茨の道を歩ませるのが、親として怖くてたまらないんだ』——って。お父さん、そう言って泣きそうな顔をしていたわ。皮肉な話よね。あなたの才能を誰よりも信じていたからこそ、その才能が開花して、あなたがバスケの深淵に呑み込まれていくのを、必死に止めようとしていたの」
遥は、自分の右手のひらを見つめた。マメだらけの手。幾度となく突き指をし、アイシングを繰り返してきた細い指先。父は、この手が傷つくのを恐れていた。
「でも」と、母親は優しく微笑んだ。
「あなたが、その……ブイ・ビー・エル? っていうのかしら。あのゴーグルを被って、テレビ画面みたいな中に入るバスケットを始めるって言った時、お父さん、少しだけ安心したような顔をしたのよ」
「安心……?」
「ええ。**『あっちの……何て言ったかしら、ヴァーチャル? の世界なら、背が高いとか低いとかいうハンデを、工夫で埋める余地があるんだ』**ってお父さん言ってたわ。ほら、私にはよくわからないけど、機械の中なら、本物のコートみたいに突き飛ばされて大怪我をする心配も少ないんでしょ? **もしあそこなら、遥はあの子自身の、本当の魂のままでバスケを楽しめるかもしれない……。私には難しくてよくわからない理屈だったけど、**そう言って、珍しく嬉しそうにビールを飲んでいたわ。もちろん、あなたの前ではそんな顔、絶対に見せなかったけれど」
遥の心の中で、いくつかの断片的な記憶が一つに繋がっていった。なぜ父が、自分がバスケにのめり込むのを黙認していたのか。なぜ、V.B.Lというシステムを自分に与えたのか。そして、なぜ「X」として、自分の前に立ちはだかったのか。
父は、守りたかったのだ。現実の残酷さに心が折れてしまう前に、彼女が「自由」に羽ばたける場所を。そして、そこでもし壁にぶつかった時は、自らが最大の壁となって、彼女の「意志」を試そうとした。
「……お父さんって、本当に不器用だね」
遥の声が、少しだけ震えた。
「そうね。どんな大きな相手にも臆せず立ち向かう選手だったのに、自分の娘には『頑張れ』の一言も言えないんだから。でも、遥。あなたもそんな不器用なところは、お父さんに似ているわね。」
母親の手が、遥の頭を優しく撫でた。温かかった。ラスベガスの、あのギラギラしたホログラムの光とは違う、心の芯を灯すような確かな温もり。
「…………いつかお父さんに、直接聞いてみたいな。お父さんが見ていた『コートの景色』は、どんな色だったの?って」
「ふふ、いいわね。きっと、情けない顔をして誤魔化すんでしょうけど」
遥は立ち上がり、残りのハーブティーを飲み干した。明日、また練習に行こう。150センチの体。それは父が案じた「呪い」ではなく、父が愛した「個性」なのだ。届かないなら、工夫すればいい。高く跳べないなら、タイミングを盗めばいい。父が影から見守ってくれていた、あの日の体育館の熱を思い出しながら、遥は自分の部屋へと向かった。
窓の外、夜明け前の空には、一番星が白く輝いていた。それは、どんな管理システムも制御できない、遥自身の意志の輝きのように見えた。
暗い階段を上がる遥の足取りは、先ほどよりもずっと軽く、確かなリズムを刻んでいた。




