上手くいかない日
キーボードの打鍵音が響く。
音の主は、部屋の主。
眉間にはほんの微かな皺。
眼鏡の奥の目は据わっている。
彼が執筆部屋に籠って何時間経っただろうか。
慣れた気配の主しかいないのをいいことに、乱れた髪もそのままに。
仮眠用のソファで資料を読み耽るもう一人を見る余裕はない。
珍しく、作家は行き詰まっていた。
「…………」
アイビーは興味なさげにページを捲る。
言葉はかけない。
目も合わせない。
ただじっと仰向けに寝そべって、部屋の主の資料に目を通す。
……カキン、とジッポの蓋が開く。
デスクに置かれた灰皿の吸殻は今にも溢れそうな有様。
画面を注視したまま煙草の箱を手探りに探すカナデの手がぴたりと止まった。
……持ち上げた箱が軽い。
「……アイビー」
「……何だよ」
「煙草」
寄越せ、と向けた手のひらで語る。
……小さな嘆息。
本を閉じる音。
ソファから身を起こしたアイビーが、使いかけの自分の煙草を放る。
カナデはそれを見もせずにキャッチした。
蓋を開け、中身を直接一本咥えて引き抜く。
手持ちのジッポで火を点そうとする。
……が、今度は手にあったはずの火種がない。
西日の差し込む部屋の中でいつの間にか手元に落ちる影。
その影を辿り傍らを見上げる。
アイビーがデスクの傍に立っていた。
その手には、カナデの愛用するジッポライター。
「…………」
アイビーは黙って風防に火を起こす。
火打石と火輪が擦れる音。
それを無造作にカナデの口元へ差し出す。
慣れた手つき。
「…………」
無言で揺らぐ火に煙草の先端を寄せ、フィルター越しの空気を吸う。
じり、と乾燥した葉が焼ける音がした。
火が点くとアイビーはジッポの蓋を閉じる。
普段吸わない味。
カナデの眉間の皺が僅かに深まる。
「……不味い」
「……だったら返せ」
「断る」
「……はっ」
銀髪を揺らし鼻で笑う。
ジッポをデスクの端に置いて、再びソファへ腰を下ろすアイビー。
その目は鋭く、けれど淡々と、自分とカナデを隔てるモニターの背を見ていた。
「…………」
不味いと切り捨てた煙草の煙を深く吸う。
慣れない味に舌が痺れた。
止まっていた打鍵音が再び響き出す。
どうやらその不味い煙草のお陰で、今回の追い込みに拍車がかかったらしい。
「……新しいの、買って返せよ」
「……こいつがひと段落着いたらな」
会話らしい会話はそれきり。
部屋には沈黙と、打鍵音だけが響く。
そこに時折入り交じる、金属の蓋の開閉音。
ソファに座ったアイビーは動かない。
カナデの眉間の皺がほんの少しだけ和らいだ気配を感じ取り、鋭い眼光を僅かに和らげる。
……それだけ。
ゆっくりと、西日がビルの谷間に沈んでいく。
徐々に暗くなる部屋を照らす光源は、カナデが向き合うモニターの光だけ。
やがて太陽が沈みきった頃、夜の気配を纏い始めた室内で椅子を引く音が響く。
「……休憩する」
「……そうかよ」
デスクから離れた影を追って、アイビーも立ち上がり仕事部屋を離れる。
あとには空になった二種類の煙草の箱と、つけっぱなしのモニターだけが残った。




