私という存在が薄れていく
終わりは、ある日突然やって来るわけじゃない。
気づかないふりをした日々の中で、
少しずつ、少しずつ、静かに形を変えていく。
その変化の音は、
誰にも聞こえないほど小さいのに、
胸の奥では確かに響く。
***
好意が消える瞬間には、いつも小さな音がする。
でも、それは一度だけじゃない。
少しずつ、何度も、小さく鳴りながら終わりに向かっていく。
彼との終わりも、そうだった。
最初にそれを感じたのは、まだ肌寒い頃だった。
オフィスの窓の外に薄い雲がかかっていて、
紙とインクの乾いた匂いが少し強かった日。
昼休み、彼がいつものように声をかけてきた。
「今日、ランチどうする?」
「どうしようかな。外、ちょっと寒いね」
「じゃあ、ビル下のカフェにする?」
いつも通りの会話。
でも、カフェに向かう途中で、ふと気づいた。
彼の歩く速度が、少しだけ速くなっていた。
私に合わせるというより、自分のペースで歩いている感じ。
そのわずかな変化が、胸の奥に小さく触れた。
カフェの中はコーヒーの匂いが強くて、
温かい空気がコートの中まで入り込んできた。
窓際の席に座ると、彼はメニューを開きながら言った。
「いつものにする?」
「うん、そうしようかな」
彼は笑った。
その笑顔は、まだ私の知っている笑顔だった。
でも、視線がメニューからあまり上がってこなかった。
そのとき、胸の奥で、ほんの小さな音がした気がした。
まだ「終わり」と呼ぶには早すぎる音。
でも、何かが少しだけ変わった合図のような音。
それから季節が進んで、
コートが薄くなり、街に湿った空気が増えてきた頃。
ある日、彼が席でスマホを見ていた。
画面の光が彼の横顔を少しだけ明るくしていた。
その光の中で、彼はふっと笑った。
その笑い方が、いつもより柔らかかった。
「何見てるの?」
自然に聞いた。
「んー、ちょっとね」
彼は画面を伏せた。
伏せる必要のないものを伏せるとき、
そこには“誰か”がいる。
その“誰か”の名前を、彼は言わなかった。
言わないことが、すでに答えだった。
胸の奥で、小さな音がした。
数日後、彼がふいに言った。
「最近さ、相談されることが多くて」
「誰に?」
自然に聞いた。
彼は少しだけ間を置いてから言った。
「まあ、いろいろ」
その“いろいろ”が、以前より少しだけ冷たく感じた。
誰かを思い浮かべている人の声だった。
その冷たさが、胸の奥でまた音を鳴らした。
その日、彼はいつもより少しだけ丁寧に髪を整えていた。
気づかないふりをしたけれど、
その丁寧さは、私のためではないことが分かった。
さらに数日後。
オフィスの空気は湿度を帯びていて、
雨の匂いが窓の隙間から少しだけ入り込んでいた。
彼が席に戻ってきたとき、
いつもなら自然に目が合うのに、
その日は合わなかった。
彼は私の席の横を通り過ぎながら、
視線をまっすぐ前に向けたままだった。
その“合わない”という事実が、
言葉よりも強く胸に触れた。
——あ、誰かを見ている。
その誰かは、私ではない。
胸の奥で、また音がした。
ある雨の日、オフィスの窓に水滴がいくつも並んでいた。
外の景色がぼやけて、ビルの輪郭が柔らかく溶けていた。
「今日、帰りどうする?」
彼が聞いた。
「雨だし、駅まで一緒に行こうよ」
そう言った私に、彼は少しだけ間を置いてから答えた。
「ごめん。今日は……先に出るかも」
「そっか。用事?」
自然に聞いた。
「うん。まあ、ちょっとね」
その「ちょっとね」が、妙に重く聞こえた。
説明がないことが、説明になっていた。
冷房の風が首筋に当たって、少しだけ冷たかった。
その冷たさと同じ温度で、胸の奥で音がした。
——あ、またひとつ減った。
彼はそのまま席を立ち、傘を持ってオフィスを出ていった。
ドアが閉まる音が、雨音と混ざって遠くに消えていった。
その日、私は一人で駅まで歩いた。
アスファルトに雨が跳ねる音が、いつもより大きく聞こえた。
街の匂いは、濡れた土と排気ガスと、
少しだけ湿った花の匂いが混ざっていた。
その匂いの中で、私は静かに思った。
——終わりって、こうやって少しずつ近づいてくるんだ。
ある日、彼がふいに言った。
「今日さ、帰りちょっと寄り道する」
「どこ行くの?」
自然に聞いた。
彼は笑った。
その笑顔は、私のほうを向いていなかった。
「ちょっとね」
その“ちょっとね”の中に、誰かの影が確かにあった。
以前なら、
「友だちと飲む」とか、
「映画観る」とか、
具体的な言葉があった。
その具体さが消えたとき、胸の奥でまた音がした。
——あ、もう前とは違う。
そして、決定的な日が来た。
夕方、オフィスの窓から見える空が薄いオレンジに染まっていた。
ビルのガラスがその色を反射して、街全体が少しだけ柔らかく見えた。
彼が帰り支度をしていた。
バッグのファスナーを閉める音がして、椅子がわずかに軋んだ。
「今日、帰りどうする?」
私はいつものように聞いた。
彼は少しだけ迷うように言った。
「今日は……人と会う」
「人?」
私は声のトーンを変えないようにした。
「うん。まあ、ちょっとね」
その“ちょっとね”が、今まででいちばん優しかった。
優しさは、誰かを好きになった人の声だった。
その優しさが、胸の奥で最後の音を鳴らした。
——あ、好きな人ができたんだ。
彼は私を見なかった。
でも、その見なさが、すべてを教えてくれた。
ドアが閉まる音が、オフィスの静けさの中に沈んでいった。
その音が、好意の終わりの合図だった。
翌日も彼は「おはよう」と言った。
私も「おはよう」と返した。
仕事の話もしたし、必要な連絡も交わした。
ただ、そこにはもう、余白がなかった。
冗談を挟む隙間も、どうでもいい話をする余裕も、
一緒にコンビニへ行く流れも、自然には生まれなくなっていた。
好意が消える音は、一度きりじゃない。
少しずつ、何度も鳴って、最後に静かになる。
その最後の静けさの中で、私はようやく受け入れた。
——この人は、もう私を好きじゃない。
悲しいというより、少しだけ、静かに寂しかった。
でも、その寂しさは、誰かを責めるためのものではなかった。
ただ、人と人の距離が変わるとき、
必ずどこかで鳴る小さな合図。
それを、私は時間をかけて聞いてきた。
好意が消える音を聞いた日——
それは、ひとつの日付ではなく、
いくつもの日付の重なりだった。
少しずつ、少しずつ、音が減っていき、
最後に静かになった。
その静けさの中で、私は静かに歩き出した。
もう、彼の足音に合わせる必要はない。
彼の予定に合わせて心を揺らす必要もない。
私の歩幅で、私の速度で、
私の景色を見ながら歩いていけばいい。
外に出ると、季節はいつの間にか変わっていた。
風の匂いが少し軽くなっていて、
空の色が少しだけ澄んでいた。
好意が消える音を、時間をかけて聞き終えたあとに残るのは、
意外なほど静かな世界だった。
その静けさの中で、私は少しだけ強くなった気がした。
***
そもそも、光の君の恋はいつも静かに始まり、
そして静かに終わっていった。
彼が心を寄せるのは、
華やかな人ではなく、
ふとした瞬間に影を見せる女性だった。
ある夜、光の君は、月のない庭でひとり佇む女性を見つけた。
彼女は灯りも持たず、ただ風の音を聞いていた。
「どうしてここに」
そう問うと、彼女は少し笑って言った。
「私という存在が薄れていく音が聞こえていたのです」
光の君はその言葉に胸を刺され、
そっと彼女の肩に触れようとした。
けれど、触れた瞬間、彼女は影のようにすり抜けてしまった。
「終わりは、いつも音がします」
彼女はそう言い残し、庭の奥へ消えていった。
好意が消える音を聞いた者は、
もう以前の場所には戻れない。
光の君もまた、その夜を境に、
ひとつの恋を静かに手放した。
「私」が聞いた音も、
きっと同じ種類のものだったのだと思う。
読んで頂き、ありがとうございます。
評価と応援よろしくお願いします!
ほぼ毎日更新しています。フォローして頂けるとうれしいです。




