育ててしまった恋のゆくえ
社会人三年目の春。僕、タクヤは、相変わらず仕事に追われていた。新人の頃よりは慣れたものの、忙しさはむしろ増していた。そんなある日、愛子ちゃんから久しぶりに連絡が来た。
「タクヤさん、内定もらえました。報告したくて」短大を卒業し、四月から社会人になるという。僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「おめでとう。よかったね」
「タクヤさんに一番に言いたかったんです」その言葉に僕は飛び跳ねたくなるくらいうれしくなった。
*
四月。社会人一年目になった愛子ちゃんは、以前より少し大人びて見えた。スーツ姿が似合っていて、髪も落ち着いた色になっていた。
「タクヤさん、私もついに社会人ですよ」そして、黙った。
中三の時から、彼女の癖を僕は知っている。彼女が黙って僕を見て、待つときは、僕の何かしらの返事を待っているときだ。それがとてもかわいい。
「うん。なんか……本当に大人になったね」彼女は照れたように笑った。
「タクヤさんのほうが大人ですよ。私なんてまだまだです」その言葉を聞きながら、僕は思った。 三年前、彼女を育てたのは僕だと思ったのだけれど、今は、僕のほうが彼女に追いつけていない。そんな感覚があった。
*
社会人になった彼女とは、以前より会う頻度が減った。お互い忙しく、予定が合わないことも多かった。それでも、月に一度は会った。食事をしたり、映画を観たり、海沿いを歩いたり。
ただ、以前と違ったのは……、最近、彼女が僕を“先生”と呼ばなくなったことだ。
「ねえ、タクヤさん。今日の映画どうでした?」その呼び方に、僕は少しだけ胸がざわついた。嬉しいような、寂しいような、不思議な感覚だった。
初めて名前で呼ばれたとき、聞いてみた。
「先生って呼ばないの?」
「だって……もう私、学生じゃないですし」そう言って笑う彼女は、やっぱり大人になっていた。
*
ある日の夜。仕事帰りに二人で食事をした帰り道、彼女がぽつりと言った。
「私、最近思うんです。タクヤさんって……ずるいですよね」
「え、僕が?」
「はい。だって、私が中三のときからずっと大人で、ずっと余裕があって……」彼女は少しだけ拗ねたような顔をした。
「私ばっかり、追いかけてた気がします」胸が痛んだ。僕はずっと、彼女を“育てた”と思っていた。でも彼女は、僕を“追いかけていた”と思っていたのだ。
「そんなことないよ。僕だって……」言いかけて、言葉が詰まった。
僕は、彼女に恋をしていた。でも、彼女が僕をどう見ているのか、ずっと分からなかった。
「ねえ、タクヤさん」
「ん?」
「私、先生のこと……ずっと特別でしたよ」その言葉に、心臓が跳ねた。
「でも、特別って……恋とは違うんだよね?」 「昔はそうでした。でも今は……」彼女は言葉を濁した。
「今は?」
「……分からないんです。恋なのか、憧れの続きなのか」僕は深く息を吸った。
「じゃあ、確かめてみる?」
「え?」
「僕と……ちゃんとデートしてみるってこと」彼女は驚いた顔をして、少しだけ頬を赤くした。
「……いいですよ。確かめてみたいです」その返事に、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
*
それからのデートは、以前とは違った。彼女は僕の腕にそっと触れたり、歩くときに少しだけ近づいてきたり。僕の言葉に照れたり、笑ったり。まるで、恋人同士のようだった。
でも、僕はまだ告白していなかった。彼女の気持ちが“恋”なのか“憧れの延長”なのか、分からなかったからだ。
*
そして、事件は起きた。ある日の夜。食事の帰り道、僕はふと口を滑らせてしまった。
「……僕、昔から愛子ちゃんのこと特別だったよ」言った瞬間、彼女の表情が固まった。
「……昔から?」
「いや、その……中三の頃から、なんていうか……」言い終わる前に、彼女の顔色が変わった。
「……信じられない」声が震えていた。
「そんな目で……見てたんですか? 私のこと」
「ち、違うよ! あの頃は本当に生徒として――」
「嘘。だって今“昔から”って言ったじゃないですか」彼女は一歩下がった。
「私、中三のとき……タクヤさんのこと、すっごく信頼してたんですよ。勉強も、進路も、全部相談して……」涙が滲んでいた。
「でも結局……私を彼女にするために、あんなに優しくしてくれてたってこと?」
「違う! 本当に違うんだ!」
「ひどすぎる……なんで私、こんな人のこと信頼してたんだろう……」その言葉は、胸に深く刺さった。
「愛子ちゃん、本当に誤解だ。あの頃は生徒としてしか見てなかった。恋として意識したのは……再会してからなんだ」
「……本当に?」
「本当だ。嘘じゃない」彼女はしばらく黙っていた。海風が吹き、髪が揺れた。
「……タクヤさんって、ずるいですよね」
「え?」
「そんなふうに真っ直ぐ言われたら……私、怒れなくなるじゃないですか」彼女は涙を拭い、少し笑った。
「……もう、分かりました。じゃあ……ちゃんと付き合ってください」その言葉に、僕は息を呑んだ。
「いいの?」
「ずるいです。タクヤさんの、そういうところ……ずるいんです」彼女は照れたように笑った。
「でも……好きです」僕はそっと彼女の手を握った。彼女は握り返してくれた。
四年前、僕が育てた少女は、今、僕の隣で大人の女性として笑っていた。そしてようやく、僕たちは恋人になった。
***
そもそも、恋というものは思いどおりに育つものではない。わたしが物語を書いていた頃から、若い男女はいつも同じことで悩んでいた。「追いかける恋」と「追いつかない恋」。 この二つが交わる瞬間ほど、物語になるものはない。
思い出すのは、あの光る君の若き日のこと。 彼もまた、年下の少女を“育てる恋”に迷い、惑い、そして自らの心に振り回されていた。 少女が成長し、彼の手を離れ、自分の知らぬ世界へ歩き出すとき―― 光る君は初めて、自分がどれほどその少女に心を寄せていたかを知った。
恋とは、育てたつもりが、いつの間にか育てられているもの。わたしは長い年月を経て、ようやくその真理に気づいた。現代の若者も、昔の若者も、恋の形は変わらない。大人になった少女と、追いつこうとする青年。そのすれ違いと再会こそ、偶然のドラマだ。この二人の恋は、ようやく同じ場所に立ったのだと。 そして、これから先の物語は、もう“先生と生徒”ではなく、ひと組の男女として紡がれていくのだろう。
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