充電の切れた午後
人の心がすれ違う理由は、いつの時代も大きな事件ではなく、ほんの小さな“うっかり”から始まる。
宮中にいた頃も、恋の流れを変えていたのは、手紙を出しそびれたり、約束の時間を少し勘違いしたり、そんな日常の些細なことだった。
今の世では、手紙の代わりにスマートフォンが使われている。その充電を、忙しさの中でふと忘れてしまうことがある。
癖ではなく、ただの人間らしい忘れごと。そんな些細な出来事が、思いがけず二人の運命を変えることもある。
***
彼と初めて話したのは、会社の帰り道だった。同じビルに入っている別部署の人で、顔を合わせることはあっても、言葉を交わしたことはなかった。
その日はエレベーターが点検中で、階段を降りることになった。彼はポケットの中でスマホを探しながら、少し困ったように笑った。
「また充電、忘れてました」
その言い方が妙におかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「そんなにしょっちゅう?」
「ええ。気づくと残り1%とかで。癖じゃなくて、ただのうっかりなんです」
その笑顔が、なぜか印象に残った。ただの雑談のはずなのに、胸の奥に小さくときめいた。
それから、帰り道で少しずつ話すようになった。彼は穏やかで、言葉を選ぶ人だった。
私の話を聞くときは、必ず一度うなずいてから返す。その癖が、妙に心地よかった。
ある夕方、彼がふと私の歩幅に合わせてきた。いつもより少し近い距離で並ぶその気配が、妙に自然だった。話題が途切れても、彼は離れようとしなかった。
「一緒に歩いてると、帰り道が長くても気にならないんですよね」
独り言のようで、私に向けたようなある曖昧な言葉。胸があつくなった。そして彼の横顔が、いつもより優しく見えた。
私は彼のことを好きになっていた。気づいたときには、もう引き返せないところまで来ていた。
けれど、彼には過去に大切な人がいたらしい。詳しくは話さないけれど、時折ふっと遠くを見る目をする。その視線の先にあるのは、私ではない。それが少しだけ怖かった。
それでも、彼と話す時間は続いた。彼が充電を忘れることも、何度か目にした。
「また忘れた」と笑う彼に、
「モバイルバッテリー持ち歩けば?」と言った。
「そうだよね。でも最近危ないニュースが多いし」と言って、結局持ち歩かない。その頑固さも、少しおかしかった。
春の終わり、彼と約束をした。週末に少し遠くまで散歩に行こう、と。彼が提案したのは珍しくて、私は嬉しかった。
けれど、当日。彼は来なかった。
待ち合わせの場所で、私は何度もスマホを見た。
連絡はない。
既読もつかない。
胸の奥が冷えていく。
嫌な想像がいくつも浮かんだ。
――私との約束を忘れた?
――行きたくなくなった?
――やっぱり、過去の人が忘れられない?
そんな思いが、静かに心を締めつけた。
十分、二十分、三十分。
私は立ち尽くしたまま、動けなかった。
そのとき、ふと気づいた。
彼は、たまに充電を忘れる。
あの“うっかり”。何度も見てきた、あの自然な習慣。彼は悪気なく、連絡手段を失ってしまう人だ。
私は深く息を吸った。
胸の冷たさが、少しだけ和らいだ。
「……忘れたんだ」
そう思った瞬間、私は歩き出していた。彼がよく通る道。彼が好きだと言っていた並木道。彼が「静かで落ち着く」と言っていた場所。
そこにいる気がした。
十分ほど歩いたところで、彼がいた。ベンチに座り、スマホを手にしたまま困った顔をしていた。画面は真っ暗だった。
私は思わず笑ってしまった。
彼は驚いて顔を上げた。
「……来てくれたの?」
「来るよ。だって、あなた、充電よく忘れるじゃない」
彼は一瞬きょとんとして、それからゆっくり笑った。その笑顔は、いつもより頼りなくて、でも確かに私を見ていた。
「本当に……忘れたんだよ。連絡しようとして、気づいたらゼロで」
「知ってるよ。あなた、いつもそうだもん」
彼は俯き、深く息を吐いた。
「ごめん、連絡できなくて……」
「なんとなく想像できたよ。充電切れてるのかなって」
彼はゆっくり顔を上げた。その目には、迷いがなかった。
「ありがとう。助かるよ」
その言葉は素直にうれしかった。すっきりとした感覚が、心の奥に広がった。彼が過去に囚われているのではないかという不安が、ふっと消えた。
私は彼の隣に座った。彼は少し照れたように笑った。
「充電、ほんとに忘れるんだよね」
「うん。だから、私が探してあげる」
彼はその言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう」
その声は、春の風みたいに柔らかかった。
私たちは立ち上がり、歩き出した。充電を忘れた午後に、彼は私を待っていて、私は彼を見つけた。
帰り道二人で笑い合った。雑談のような“充電の話”が、こんな形で思い出され、気づけば私の足を動かす理由になっていた。彼のうっかりを知っていたから、私は探しに行けた。そして、彼はそこにいた。
週末の空気は、少しだけ澄んでいた。
***
そもそも、恋がすれ違う理由は、いつの時代も大きな事件ではなく、ほんの小さな忘れごとから始まる。
彼が充電を忘れたのは、気持ちの薄さではなく、忙しさの中で置き去りになった小さな出来事。大きな事件ではなく、充電を忘れるという小さな出来事が、二人の関係を整えた。
光の君も、藤壺という“決して届かない人”を長く想い続け、その想いが彼の人生を複雑にした。けれど、彼が本当に求めていたのは、届かない恋ではなく、日々の気配を分かち合える相手だった。
今日の彼は、そんな気配を分かってくれる彼女がいて、うれしかったのだとわたしは思う。
読んで頂き、ありがとうございます。
評価と応援よろしくお願いします!
ほぼ毎日更新しています。フォローして頂けるとうれしいです。




