まだ名前を知らなかった頃の君
まったく、現代の若者というのはせわしない。恋をする暇もないと言いながら、心のどこかでは誰かに導いてほしいと期待している。
昔も似たようなものだったけれど、今も「育てる恋」だの「導く関係」だの、妙に他力本願のような恋愛が好きな若者が多い。
ひとりの大学一年生が、ふと出会ってしまった少女に恋をする。恋心で揺れる青年と、まだ恋を知らない少女。そんな危うい関係ほど、物語になりがちである。だって、あの光る君だって若いころは似たようなことをしていたのだから。
***
大学に入って最初の夏が近づいていた。僕は横浜のアパートで、扇風機の弱い風に吹かれながら、家庭教師の準備をしていた。バイト先から紹介された中学三年生の女の子――名前は愛子ちゃん。成績は悪くないが、志望校にはあと一歩届かないらしい。
初めて会った日のことを、僕は今でもはっきり覚えている。玄関を開けた瞬間、ふわりと石鹸の匂いがした。白いブラウスに紺のスカート。髪は肩にかかるくらいで、目が驚くほど大きかった。
「今日からお願いします」そう言って頭を下げた愛子ちゃんは、まだ幼さの残る顔立ちなのに、どこか凛とした雰囲気を持っていた。
僕は大学一年。彼女は中学三年。年齢差は大きいはずなのに、なぜかその距離が曖昧に感じられた。
勉強は、驚くほど素直に吸収していった。 僕がノートに書いた式を、愛子ちゃんは真剣な目で追い、何度も頷きながら問題を解いた。
「先生、ここまでは分かるんですけど、この先が……」そう言って身を寄せてくると、細い指が震えているのが分かった。
僕は、教えることがこんなに楽しいものだとは知らなかった。彼女が理解した瞬間に見せる小さな笑顔が、胸の奥にじんわりと広がっていく。その感覚が、いつしか僕の中で特別なものに変わっていった。
ある日、休憩中に彼女がぽつりと言った。 「先生って、大学生ですよね。大学生って、大人なんですね」僕は照れ隠しに笑ったが、心のどこかでその言葉にドキドキした。
夏が過ぎ、秋が来て、冬が近づいた。模試の結果は少しずつ上向き、志望校の判定もAに変わった。
そして迎えた受験当日。僕は教室で祈るようにスマホを握りしめていた。
合格発表の日、愛子ちゃんからメッセージが届いた。
「先生、受かりました!」その一文を見た瞬間、胸が熱くなった。僕はすぐに彼女の家へ向かった。
玄関先で、愛子ちゃんは涙を浮かべていた。
「先生のおかげです。本当に……ありがとうございました」その言葉に、僕は何も返せなかった。ただ、彼女の成長を見届けたという達成感と、胸の奥に沈む小さな寂しさが混ざり合っていた。
家庭教師は、合格とともに終了した。最後の授業の日、帰り際に愛子ちゃんが言った。
「先生のことを尊敬してます。私、先生みたいな大人になりますね」その瞳はまっすぐで、曇りがなかった。
僕は笑って頷いた。けれど、心のどこかで尊敬ではなく、恋として見てしまっている自分に気づいていた。
しかし彼女は、僕を“先生”としてしか見ていない。その距離は、思っていたよりもずっと遠かった。春の風が吹く中、僕たちは静かに別れた。もう会うことはないだろうと、僕は思っていた。
四年後、あの声を聞くまでは。
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