転生人語#046 ―ハンカチの香りー
香りというものは、目にも見えぬくせに、人の心をいとも簡単に乱す。言葉よりも早く胸の奥へ忍び込み、触れられたくない思いまで呼び覚ます。わたしも昔、返された布に残った香りに、ひと晩中眠れなかったことがある。香りは消えても、心のざわめきだけは、どうしても消えてくれない。
***
昨日、後輩に貸していたハンカチが返ってきた。
「ありがとうございました。助かりました」
「いや、全然。気にしないで」
いつものやり取り。のはずだった。手に取った瞬間、ふわりと香りがした。柔軟剤じゃない。香水でもない。彼女の匂いだ。
「あれ?」思わず声が漏れた。
「え、どうかしました?」
「いや、なんでも…」なんでもじゃない。落ち着け。顔に出るな。出てる気がする。
「これ、洗って返してくれたの?」
「はい。汚しちゃったので……すみません」
「いや、むしろ……ありがとう」
「むしろ?」
「いや、なんでもない」むしろって何だよ。バカか。
彼女が小さく笑った。その一瞬で胸が跳ねた。やめてくれ、その笑い方。落ち着かなくなる。
午後の会議中。
「また見てる」隣の同僚に言われて、慌ててハンカチをしまった。
「見てないし」見てたよ。めちゃくちゃ見てたよ。香りが消えるのが怖いなんて、言えるわけがない。
夕方、エレベーターで彼女と一緒になった。
「お疲れさまです」
「お、お疲れさま」声が上ずった。終わった。絶対バレた。
扉が閉まる。狭い空間に二人だけ。沈黙がやけに重い。
「今日、忙しかったですよね?」
「うん、まあ。そっちは?」
「私は…普通でした」
「そっか」
会話が続かない。続けたいのに、続けたら何かが漏れそうで怖い。彼女が髪を指で撫でた瞬間、あの香りがふわりと広がった。
「……っ」息を吸い込んだの、絶対バレた。
「どうかしました?」
「いや、ちょっと……」
「顔、赤いですよ?」
「え、マジで?」
「はい。なんか……熱あります?」
「いや、ない。たぶん」
「たぶん?」
「ないと思う」やめてくれ、その距離。その声。その気遣い。
彼女がまた小さく笑った。その笑い声が、沈黙よりも心臓に悪い。
7階、6階、5階…
「ハンカチ……ありがとうございました」
「いや、本当に気にしないで」
「でも……なんか、嬉しかったです」
「……え?」
「え?」同時に驚いて、同時に目をそらした。
嬉しかったって何?どういう意味?期待していいの?いや違う。でも……嬉しい。
4階、3階…
彼女が小さく深呼吸した。
「じゃあ……お先に失礼します」
扉が開く。伸ばしかけた手を、わたしは引っ込めた。行かないでほしい。でも呼び止める理由がない。理由なんていらないのに、言えない。
扉が閉まる。残されたのは、彼女の残り香だけだった。
家に帰ってからも、机の上のハンカチに何度も視線が向く。香りが薄くなるのが怖い。でも、残っているのも怖い。
香りは薄れていくのに、気持ちは薄れない。
***
そもそも、香りとは厄介なものだ。姿も見えぬくせに、人の心を惑わせ、理性など簡単に踏みにじってゆく。わたしも昔、返された布に残った香りに胸を乱され、
「こんなものに振り回されるとは」と、自分の愚かさに呆れた夜がある。
人は恋に落ちると、相手の仕草ひとつ、息づかいひとつに意味を探し、勝手に期待し、勝手に傷つく。まったく滑稽だと思う。そう思いながら、わたしも同じことをしてきた。
香りはすぐに消える。けれど、消えたあとに残る“勘違い”と“未練”だけは、なぜかしぶとく生き残る。
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