転生人語 #044 ― 名前の呼び方 ―
人の心というものは、声に出さないところでよくドキドキする。呼び方ひとつで、近づいたり離れたりするのは、昔から変わらない。名を呼ぶとは、相手の存在をそっと抱き寄せるようなもの。その一歩を踏み出すかどうかで、物語の色は大きく変わる。若い“僕”がそのことに気づき始めたのなら、それは悪くない兆しだ。
***
朝の通勤電車で、ふとスマホが震えた。画面には、彼女からの短いメッセージ。
「今日、少し早く行けそう」
それだけの文なのに、なぜか胸の奥が温かくなる。返信しようとして、指が止まった。
彼女の名前をどう呼ぶか——それで迷ったのだ。
いつもは苗字に「さん」をつけて呼んでいる。仕事の仲間もそう呼ぶ。無難で、誰にでも通じる呼び方。でも、今朝の彼女のメッセージには、どこか“近さ”のようなものを感じた。勘違いかもしれないけれど。
思い切って、下の名前で呼んでみようか。それとも「ちゃん」をつけてみようか。いや、急に呼び方を変えたら、変に思われるだろうか。そもそも、そんなことを気にしている自分に驚く。
駅に着くと、彼女が改札の前で手を振っていた。いつもより少しだけ明るい表情に見えるのは、気のせいだろうか。
「おはよう、◯◯さん」
結局、いつもの呼び方になってしまった。でも、彼女は一瞬だけ、何か言いたげにこちらを見た。
一緒に会社に向かって、歩き出した。彼女がぽつりとつぶやいた。
「名前で呼んでもいいよ」とちょっと恥ずかしそうに言った。
その声は、とても優しく聞こえた。その一言が、今日一日の景色を少しだけ変えてしまった気がする。
***
そもそも、名とは人の心を映す鏡のようなものだ。どの名を、どの距離で呼ぶか——そこに、その人が誰を想い、どれほど近づきたいのかが滲み出る。
わたしも昔、呼び方をひとつ変えただけで、距離をぐっと近づけることができたことがある。
“僕”もまた、名前の呼び方で、自分の気持ちを知り始めているのだろう。
読んで頂き、ありがとうございます。
評価と応援よろしくお願いします!
毎日更新しています。フォローして頂けると励みになります。




