タブーと分かってはいるけど
触れてはいけないと分かっていても、忘れたふりをしたとしても、ふとした瞬間に思い出してしまうことがある。
大阪での生活に慣れ、恋人と過ごす時間が増えても、マサの心には横浜の家のことが気になっていた。触れたらいけないと知りながら、思い出すだけで胸が熱くなる。
光の君が藤壺を前にして、理屈では止められない感情に翻弄されたように。人は時に、触れてはいけない相手へ向かってしまう。その理由は誰にも説明できない。ただ、心が勝手に反応するだけだ。
***
大阪の部屋で、僕はハンカチを指でなぞっていた。横浜を出る日に、ママが渡してくれたものだ。柔らかい布の端を触れるたび、胸の奥が静かに疼く。
大学生活は忙しくて、楽しくて、刺激的で。それでも、ふとした瞬間に、この手触りが記憶を呼び起こす。台所で髪を耳にかける仕草。
忘れたと思っていた。
でも、忘れていなかった。
大阪の彼女といる時間は楽しい。笑うと目尻が少し下がるところが好きだ。でも、時々その表情の中に、ママの影を探してしまう。探すつもりはないのに、勝手に探してしまう。
そんな自分が嫌で、ハンカチを引き出しにしまった。でも、しまっても意味はなかった。胸の奥のざわつきは、布の有無とは関係なく続いていた。
秋の初め、父から電話が来た。
「マサ、今度の連休、帰ってこないか?久しぶりに家族で飯でも食おう」
家族。その言葉に、胸が少しだけ重くなった。
「……考えとく」
電話を切ったあと、しばらく天井を見つめた。帰りたくない理由は、もうはっきりしている。でも、逃げ続けるのも違う気がした。大学生になって、少しは大人になったはずだ。自分の感情くらい、コントロールできるようにならないといけない。
僕はハンカチを取り出し、しばらく指で触れた。その柔らかさが、決心を静かに押した。
「……帰るか」
自分に言い聞かせるように呟いた。
*
横浜駅に着いた瞬間、空気の匂いが懐かしかった。大阪とは違う湿度と、街のざわめき。胸の奥が少しだけ締まる。
横浜の家の玄関を開けると、カレーの香りが満ちていた。
「マサ、ちょうどできたところ。辛さ控えめにしたよ?お父さんは遅くなるみたい」
テーブルには二つの皿と、冷えたビールの缶が並んでいた。父がいない夜に、ママと二人でビールを飲む。それだけで、ドキドキする。
プシュ、と缶を開ける音が静かな家に響いた。ママもニコッと笑いながら、同じタイミングで缶を開ける。その仕草が目に焼きついた。
ビールを一口飲むと、喉の奥が少し熱くなった。カレーの香りと混ざって、胸の奥のときめきが静かに広がる。父のいない家で、ママと二人で食卓を囲む。それだけで、二十歳の僕は胸の中で大きな溜め息をする。
「マサ、大学楽しい?」「彼女とは続いてる?」とやたら質問してきた。適当に答えながら、ビールでカレーを流し込んだ。
食後、ママが言った。
「もうちょっと飲む?」
缶を持ってソファに移動すると、ママは僕の隣に座った。距離は近くもなく、遠くもない。でも、僕の心には近すぎた。ビールの泡の音が静かに消えていく。その音のない時間が、胸の奥をそっと押した。
「マサってさ、時々すごく遠くを見るみたいな顔するよね」
大学の彼女にも言われた言葉だった。僕は少しだけ息を飲んだ。ママが缶を置き、僕の横顔を覗き込む。その距離が近すぎて、胸がドキドキする。
「ママはなんで父さんと再婚したの?」
「どうしてって……。あ、そっか、私たちの馴れ初めを聞いてないのね」
確かに父からは聞いてない。
「お父さんは会社の上司だったのよ。奥さんが亡くなったあと、なんとなく付き合い始めたの」
ママが少し恥ずかしそうに話す。僕は固まって聞いていた。
「どうした?」
「……ごめん」
理由のない謝罪だった。でも、言わずにはいられなかった。
次の瞬間、僕はママを抱きしめてしまった。それは一人の女性として。ビールのせいではない。タブーのブザーが頭の中で鳴り響く。ママの体は軽くて、あたたかくて、柔らかかった。
「マサ……?」
ママの声が震えた。僕は腕をほどこうとした。でも、ほどけなかった。
「ごめん……」
「どうしたの?」
「……わからない」
ママは少しだけ僕の背中に手を添えた。その手は、拒絶でも肯定でもなかった。ただ、優しかった。
「マサ、ダメよ」
我に帰った。ゆっくり腕をほどくと、ママは少しだけ息を整えた。驚きと戸惑いと、少しの優しさが混ざった顔をして。
「私はママなの」と優しく叱るような声で言う。胸が痛くなった。そんなこと分かってるって。ママは気づいたのだろうか。僕が子としてではなく、男として抱きしめたことを。
「だめよ」ってことは僕を男として感じてくれたということだと後になって僕は気づいた。
ママがキッチンに向かった。
*
父が帰ってきたのは深夜だった。僕は自分の部屋で布団に入っていた。眠れなかった。ママを抱きしめた感触が、まだ腕に残っていた。ママは僕を拒絶しなかった。と思う。
次の日、ママは何もなかったかのように振る舞うのだが、僕は父やママの顔をまともに見ることは出来なかった。
大阪に戻る新幹線の窓に映る自分の顔は、少しだけ変わって見えた。横浜の家で起きたことは、誰にも言えない。ただ、胸の奥に静かに残る。
ママは父のものだ。きっとそのうち僕に弟や妹が生まれてくるかもしれない。そのことが許せなくなってきた。それはママを抱きしめた感触がそう思わせているようだ。タブーなんて正論だ。僕の衝動は止められそうにない。
タブーのブザーが、いつの間にか、何かの開始のブザーに聞こえてきた。
***
そもそも、光の君と藤壺の物語は、母の面影を宿す存在へ向かってしまった一人の青年の痛みから始まる。藤壺は父帝の后であり、決して触れてはいけない相手だった。それでも光の君は、理屈では止められない想いに翻弄され、ある夜、タブーの壁を超えてしまった。そしてその関係は彼の人生に長く残り続けた。マサが抱えた感情もまた、千年前のその話と同じ匂いがするようだ。
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