踏み出せない一歩の先
好きになってはいけない人ほど妙に気になったり、触れられない距離にいる人ほど触れたくなることがある。禁断の恋というものは厄介だ。そして、奪うべきではない人ほど、心の奥で静かに熱を帯びる。
昔の光の君も、今日の僕も若さゆえの真っすぐさと、どうしようもない衝動を抱えながら、彼女の横顔を追いかけてしまう。
見てはいけないと言われるとどうしても見たくなる。やめろと言われると続けてしまう。そんな葛藤は人間のこころにしかない衝動なのかもしれない。
***
朝の駅前は、まだ少し湿った空気が残っていて、人の流れがゆっくりと会社へ向かっていた。僕はその中で、いつものようにある女性を探している。
会社の先輩、サワコさん。三十代半ばで、落ち着いた声、柔らかい笑い方。問題は彼女
の左手には結婚指輪が光っていること。好きになってはいけない人だ。それなのに、僕の目が離れない。
その朝、彼女はふっと振り返った。
「あら、おはよう」
声は低くて、朝の空気に合う温度だった。
「お、おはようございます」
「朝早いのね」
「たまたまです」
「たまたまって便利ね」
その言い方が妙に胸に残った。彼女は歩きながら、僕の方をちらりと見た。
「眠そうね」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけって、だいたい嘘よね」
からかっているようで、見透かしているようでもあった。どちらとも取れる曖昧さが、胸の奥を静かに熱くした。
会社に着くと、彼女はエレベーターの前でふっと笑った。
「じゃあ、また」
その“また”が、一日中僕を落ち着かなくさせた。
*
飲み会でも、僕はつい彼女の隣を狙ってしまう。自然を装いながら、席の流れを読んで、彼女の近くに座る。彼女は気づいているのかいないのか分からないけど、いつも少しだけ僕の方へ体を向けてくれる。
「あなた、飲むと顔に出るのね」
「出ますかね」
「ええ。少し赤くなるわよ」
その言い方は、責めているわけでも、誘っているわけでもない。ただ、僕の存在を軽く受け止めているだけの温度だった。グラスを置く音が静かに響く。彼女は指先で縁をなぞりながら言った。
「彼女とかいるの」
彼女が周りに聞こえないように小さい声で聞く。僕はなぜかときめいた。彼女は僕の顔を見ない。ただ、グラスの縁をゆっくりなぞり続ける。
「いないです……」
「誰にでもそう言うでしょ。本当は?」
彼女はふっと笑った。
「言わなくていいわよ。言われても困るもの」
困る?その言葉が何度も頭の中で繰り返されていた。
*
会社の女子たちは、彼女のことをよく話題にする。
「サワコさん、そろそろ子供できるんじゃない?」
「旦那さん、別の会社なんでしょ?」
「結婚して五年くらいだよね」
そんな噂が、僕の胸をざわつかせる。聞きたくないのに、耳が勝手に拾ってしまう。
僕は思う。――どうすれば奪えるだろうか。
倫理なんて、もうとっくに置いてきてしまった。彼女が笑うたび、僕の中の理性は少しずつ壊れていく。
*
夕方、会社を出て駅まで歩く帰り道で、彼女がふっと僕の横に並んだ。
「お疲れ」
「あ、お疲れ様です」
「いつも帰りはこれくらい?」
「今日、帰り遅いの?」
「日によります」
「まぁ、そうだよね」
彼女は歩きながら、僕の方をちらりと見た。
「あなた、誰かを真剣に好きになると、ちょっと危ないわね」
「危ないですか」
「ええ。巻き込まれそうになるもの」
巻き込まれそう?え?サワコさん、僕のこと言ってるのだろうか。
「……巻き込まれてもいいんですか」
彼女は歩く速度を少しだけ落とした。夕方の光が、彼女の横顔を薄く照らした。
「あなた、そういうこと言うのね」
「言いますよ」
「言われても困るわ」
困る?またその言葉だ。困ると言いながら、彼女は僕の方を見た。そして早歩きで改札の中に消えていった。残された僕はなぜかガッツポーズをしていた。
*
数日後の朝、会社までの道で、彼女がふっと声をかけてきた。
「あなた、最近ちょっと危ないわよ」
「何がですか」
「目がね。誰か一人だけ見てる目してる」
「誰ですか」
「言わせる気?」
「言いたいです」
「言われても困るわ」
困ると言いながら、彼女は僕の方を見た。
その視線は、拒んでいるようで、誘っているようでもあった。
「……あなた、ほんとに若いのね……」
「若いですよ」
「若い人に真剣に見られると、つらいのよ」
「つらいって?」
彼女は答えなかった。答えないまま、早足で行ってしまった。彼女との会話は僕たちの秘密にすべきだと思った。
*
僕は思う。――彼女は僕のことを嫌いではない。むしろ、好いている。ただ、踏み出せないだけだ。
彼女は既婚者だ。旦那は別の会社。結婚して五年。そろそろ子供ができるかもしれない。会社の女子たちはそう噂している。
でも、僕は思う。――僕なら、彼女を幸せにできる。
*
夕方の帰り道、彼女が話しかけてきた。
「あなた、ほんとに困るわ」
「どうしてですか」
「……私、最近、会社の行き帰りであなたを探しちゃうの」
「僕もです」
彼女は歩きながら、僕の方を見た。
「あなた、ほんとに奪いそうで怖いのよ」
「奪いますよ」
彼女は立ち止まった。夕方の光が、彼女の横顔を薄く照らした。
「……言わないで」
「言いますよ」
「言われたら困るのよ」
「困らせたいです」
彼女は目を閉じた。ほんの一瞬だけ。
「……あなた、ほんとに若いのね……」
「若いですよ」
「私、おばさんよ」
「そんなことないです」
彼女は答えなかった。答えないまま、僕の方を見た。その沈黙が、答えだった。
*
僕は今日も、駅から会社までの道で彼女を探す。探してしまう自分を止められないまま、朝と夕方の光の中で、彼女の影を追い続ける。
***
そもそも、人は誰かを好きになった瞬間に、少しだけ孤独になる。その孤独は、してはいけない相手を好きになったときほど深くなる。
光の君と空蟬は、その孤独の象徴だ。彼は一度抱き寄せたはずの彼女を、翌朝には影のように失い、残ったのは衣の香りだけだった。空蟬は自分の立場と理性を守るために、彼の腕からすり抜けた。触れたと思った瞬間に消える人ほど、心に長く残る。奪えない恋ほど、形を保つ。
僕もまた、サワコさんを追いながら、同じ孤独を抱えている。倫理ではなく衝動で動いてしまう自分に気づきながら、それでも止まれない。触れられない恋ほど、思いは深くなる。奪いたいと思った瞬間、人が変わってしまう。
彼は今日も、朝と夕方の光の中で彼女の影を探す。探してしまう自分を止められないまま、胸の奥の思いを抱え続ける。
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