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転生人語 ー紫の語りー  作者: 岩田 ヒロ
藤壺(ふじつぼ)

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昔の恋を上書きできない僕

 恋というものは、思いどおりにならないものだ。忘れたい人ほど影のように心に居残り、忘れられずにいる。また、忘れられたい人ほど胸の底に沈み、甘えてしまうことがある。


 人は心の奥にひとりの面影をしまいながら、別の誰かの手を取って歩き出すことがある。弱さとも言えるし、生きるためのしたたかさとも言えるかもしれない。


 この物語の“僕”もまた、上書きできぬ恋を抱えたまま、新しい誰かに手を伸ばしてしまったひとりである。


 ***


 人はどうして、忘れたはずの人を、ふとした瞬間に思い出してしまうのだろう。僕は三十歳を過ぎた今でも、その問いに答えを持っていない。


 大学時代、僕には長く片思いをしていた女の子がいた。同じサークルで、いつも端の席に座って本を読んでいた。話しかけると、少し驚いたように目を丸くして、それから控えめに笑う。その笑顔が、僕にはどうしようもなく特別だった。


 告白は三度した。一度目は、彼女が髪を肩まで切った春。二度目は、卒業旅行の帰り道。三度目は、社会人になってから、酔った勢いで電話をかけてしまった夜。返事はいつも同じだった。

「ごめんね。そういう気持ちにはなれないの」彼女は優しかった。僕を傷つけないように、でも期待を持たせないように、言葉を選んでくれた。


 だからこそ、僕は余計に忘れられなかった。彼女は僕の中で、“もし”の象徴になっていった。


 もし、もっと早く出会っていたら。

 もし、もっと強く気持ちを伝えていたら。

 もし、あのとき手を伸ばしていたら。


 そんな“もし”を抱えたまま、僕は三十歳になった。


 ある日、職場の後輩の女の子が、突然言った。

「先輩のこと、ずっと好きでした」驚いた。僕はこれまで女性から告白されたことはなかった。ましてや職場でそんな言葉を聞くとは思ってもいなかった。


 彼女は明るくて、よく笑う子だった。仕事は丁寧で、誰に対しても礼儀正しい。僕より五つ年下で、周りからも好かれていた。告白された瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。けれど、その温かさのすぐ隣に、冷たい影があった。彼女の笑い方が、少しだけ“あの子”に似ていたからだ。


 その影は、僕の心の奥にずっと居座っていた。それでも僕は、彼女の告白を断れなかった。

「ありがとう。僕でよければ……」その言葉を口にしたとき、彼女は涙ぐんで笑った。その笑顔がまた、少しだけ“あの子”に似ていた。


 付き合い始めてから、僕は彼女を大切にしようと努力した。デートの計画も、記念日のプレゼントも、できる限りのことをした。彼女はいつも嬉しそうにしてくれた。けれど、ふとした瞬間に、僕の心は別の方向を向いていた。


 彼女が髪を耳にかける仕草。コーヒーを飲む前に、必ず一度だけ香りを確かめる癖。笑うときに少しだけ唇がとがるところ。全部、“あの子”と同じだった。


 いや、正確には“似ているように見えた”だけなのだろう。僕が勝手に重ねていただけだ。


 ある夜、彼女が言った。

「ねえ、私のこと、ちゃんと見てる?」胸が痛んだ。彼女は気づいていたのだ。僕の視線の奥に、別の誰かがいることを。

「もちろん見てるよ。君のことが好きだよ」そう言った僕の声は、どこか震えていた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「本当かな。寝言、気づいている?」

「えっ」

「たまに知らない子の名前、言ってるよね」

「……」長い沈黙があった。でも沈黙が、すべての答えだった。彼女は泣かなかった。ただ、少しだけ寂しそうに笑った。


 その夜、僕たちは別れた。


 彼女は最後まで優しかった。僕のことを責めることもなく、ただ静かに去っていった。別れたあと、僕はしばらく何も手につかなかった。彼女の残した温もりが、僕の中で痛みに変わっていった。


 僕は、彼女を愛していたのだろうか。それとも、彼女の中に“あの子”を見ていただけなのだろうか。答えは今も分からない。ただひとつ確かなのは、僕は誰かを傷つけてしまったという事実だけだ。


 それから一年が経った頃、その後輩の子が、ふとしたきっかけで僕の前に戻ってきた。

「元気?」その声は、以前より少し大人びていた。


 彼女は僕と別れたあと、自分の弱さやわがままさと向き合ったという。僕もまた、自分の中の影と向き合っていた。


 話しているうちに、気づいた。彼女はもう、“あの子”にはまったく似ていなかった。いや、最初から似ていなかったのだ。僕が勝手に重ねていただけだった。彼女は彼女で、僕の前に立っていた。

「新しい彼女できた?」

「いや、彼女はいないよ」

「そう。ねぇ、もう一度……もう一度やり直してみない?」恥ずかしそうに彼女が言った。その言葉を聞いた瞬間、僕の中で、長いあいだ閉じられなかった扉が、静かに音を立てた。僕は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「……僕も、もう一度やり直したい」そのとき初めて、僕は“あの子”の面影ではなく、目の前の彼女を見ていた。ずるい僕は、心の奥にしまい込んでいた昔の彼女を、ようやくそっと手放すことができた。


 そして今、僕は後輩の彼女と結婚する準備をしている。彼女の笑顔は、もう誰の面影でもない。僕が選んだ、たったひとつの笑顔だ。


 ***


 そもそも、人はなぜ、心の奥にしまったはずの人を、何度も思い返してしまうのだろう。恋は忘れようとすればするほど、かえって深く沈んでいくものなのかもしれない。


 “僕”が昔の彼女を忘れられなかったように、かつて光の君もまた、胸の底にひとりの面影を抱え続けた人であった。決して愛してはいけない人を忘れられずにいた記憶は、彼の人生の底に静かに沈んでいた。


 やがて彼は、若く無垢な女性に出会う。だがその愛し方は、彼女自身を見つめるというより、忘れられない人の影を追うようなものだった。求められる側の痛みを知らぬまま、光の君は彼女の心を深く傷つけてしまう。


 人は誰かの代わりにはなれない。そして、誰かを代わりにしてはならない。千年を経てもなお、わたしたちの胸に静かに問いを投げかけてくる。


 “僕”もまた、昔の彼女の影を後輩の子に重ね、その影が彼女を傷つけたことに気づけなかった。だが彼はようやく、心の奥にしまっていた面影をそっと閉じ、目の前の彼女と歩く道を選んだ。


 恋はいつも少し残酷で、それでもどこか優しいときがある。


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