終わりの気配が胸にふれる
いつの時代も、好きな人を疑う心は変わらないものだ。ほんの小さな違和感が、気づけば大きな影になることがある。行き過ぎれば、石橋を叩いて、叩きすぎて、壊してしまい、渡れなくなる。
今日の「私」の影は、その橋の上で立ち止まっている者の影に見えた。胸の奥の悩みは深く、静かに沈んでいた。その沈み方が、昔描いた女たちの影とどこか似ていて、私は少しだけ驚いた。
***
電車がトンネルへ入ると、窓は景色を閉じて、代わりに私の表情を静かに浮かべた。そこに映った顔は、いつもの私ではなかった。薄い汗が額に滲み、頬にかすかな影が落ちている。こんな顔をしていたのか、と自分でも驚くほど、どこか強張っていて、どこか怯えているようにも見えた。抑え込んできた感情が、暗い窓の中で形を取り戻したかのようだった。
胸の奥で静かに言葉が浮かぶ。──二人は、どこか合っていない気がする。その感覚は今日だけのものではなく、ずっと前から薄い影のように心の奥にあった。見ないふりをしていただけだった。電車の揺れに合わせて、ふと会話の記憶が浮かぶ。
「その話、前にもしたよね」
彼はそう言い、少しだけ視線を逸らした。
「……そうだっけ」
私は笑おうとしたが、うまく形にならなかった。
「うん。まあ、いいけど」
その“いいけど”の言い方が妙に冷たく、胸の奥に小さなズレを残した。
別の日には、
「最近、なんか元気ないね」
と私が言うと、彼は少し間を置いてから、
「別に。そういうの、いちいち言わなくていいよ」
と返した。その温度の低さが、忘れられない。
そして今日。彼の態度の奥に、言葉にできない“何か”が潜んでいる気がした。隠している気がする。何を、とは言えない。ただ、彼の目の奥に、以前はなかった影が見えた。妄想が静かに膨らむ。誰かと連絡を取っているのかもしれない。仕事のことを隠しているのかもしれない。私に言えない悩みがあるのかもしれない。あるいは──もう私への気持ちが薄れているのかもしれない。
昨日、彼のスマホが鳴ったとき、画面を伏せるようにして通知を隠した仕草が胸に残っている。
「誰?」と聞こうとして、やめた。聞いたところで、答えはきっと曖昧だろうと思ったから。その曖昧さが、今日の影をさらに濃くした。
そして私は昔の彼と比較してしまう。前の彼は、通知が鳴るたびに
「誰からだと思う?」と笑って見せてきた。
隠すことなど何ひとつなく、夜遅く帰る日でも細かいことまで話してくれた。
比べてはいけないと思いながら、比べずにはいられない。比較するたびに、今の彼との距離が少しずつ広がっていく。その距離を埋めようとする気力が、今日の私にはもう残っていなかった。
胸の奥で、言えなかった一言が浮かぶ。
「私たち、どこか合っていないのかもしれない」
そう思うこと自体が苦しくて、ずっと避けてきた。けれど、影は今日、はっきりと輪郭を持ってしまった。
電車がトンネルを抜け、光が窓に戻る。外の景色が再び流れ始めると、窓に映る顔は少しだけ薄れていく。影が光に溶けていくように、表情がわずかに軽くなる。けれど、胸の奥の影はまだ消えない。光に照らされても、完全には消えず、形を保ったまま静かに残っている。
気づくと、降りる駅を乗り越していた。窓の中の影に気を取られすぎて、時間の流れを忘れていた。
次の駅へ向かう電車の中で、私は窓に映る自分をもう一度見つめる。さっきよりは少しだけ穏やかに見える。けれど、影はまだ薄く残っている。
二人はどこか合っていない気がする──その感覚は簡単には消えない。形を変えながらも、心の奥で静かに息をし続ける。影は、私の輪郭を静かに教えてくれるだけだ。
***
そもそも、人の心は誰かを想うほどおびえを感じ、影を宿しやすい。
六条御息所のことを思い出す。光の君の心が自分から離れていく気配を、誰よりも早く、誰よりも深く感じ取ってしまった女。光の君が少し視線を逸らしただけで胸が痛み、沈黙が長くなるたびに影が濃くなる。抑えようとした想いは、抑えれば抑えるほど別の形で姿を現した。
人は皆、誰かの態度の奥にあるわずかな温度差におびえ、過ぎた日の記憶と比べてしまう。今日、窓に映る顔を見つめていた「私」の胸にも、きっと同じ影がそっと息をしていたのだろう、とわたしは思った。
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