新しいママの横顔が離れない
藤壺という女は、清らかな気品と深い慈しみを湛え、宮中にあってもひときわ静かな光を放つ人である。光源氏にとっては、亡き母の面影を宿す存在として、敬慕と恋情が入り混じる特別な関係となった。慎みを尽くして距離を保ちながらも、互いの心は抑えがたく寄り添い、その秘められた絆は物語に深い影と余韻を落とす。気高さゆえに抱えた苦悩こそ、彼女の美の源である。
光の君のように、触れてはいけない相手へ向かってしまう男は、いつの世にもいる。千年後のここにも、同じように触れてはいけない相手に恋する男がいる。
***
十七歳の僕、マサは、父の再婚相手を初めて見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。玄関に立つその人は、淡いクリーム色のワンピースをまとい、肩までの長い髪が美しかった。その雰囲気は、十七歳の僕にはかなり眩しすぎた。
「今日からよろしくね。急に来ちゃって驚かせたかな」
十歳で母を亡くして以来、誰にも向けられたことのない種類の優しさだった。父は横で満面の笑みを浮かべている。
「マサ、お前もすぐ慣れるさ。新しいママだよ」
新しいママ?僕を小学生扱いするのは勘弁してほしかった。そんな簡単に言うなよ。僕の気持ちなんて、考えもしないくせに。
彼女――いや、ママと呼ぶべきなのか――は三十歳。父より十歳年下で、僕より十三歳年上。若くて、綺麗で、柔らかい雰囲気をまとっていて。高校二年の僕には、刺激が強すぎる存在だった。
*
それからの日々、彼女はいつも僕に優しかった。朝、眠そうに食卓へ降りると、湯気の立つ味噌汁をそっと差し出してくれる。
「昨日、遅くまで勉強してたんでしょ。無理しないでね」
その言葉に、胸が少し熱くなる。でも僕は返事をしない。視線も合わせない。彼女が優しくすればするほど、僕は無視するしかなかった。だって、父の再婚相手なんだ。僕がこんなふうに感じていい相手じゃない。
台所で髪を耳にかける仕草。洗濯物を抱えて階段を上がるときの軽やかな足取り。ソファで本を読むときの指先のしなやかさ。どれもこれも、僕の年齢には眩しすぎた。
「なんでこんな若くて可愛い人が新しいママなんだよ」
そう思うたび、胸の奥がきゅっと縮まった。
僕の本当のお母さんは十歳の頃の記憶にしかいないし、写真の中にしか存在しない。お母さんは色褪せても一人しかいない。この人をお母さんとは呼べない。
父はそんな僕の葛藤を知らない。
「お前もそろそろ受け入れろよ。家族なんだから」
その言葉が、僕をさらに追い詰める。僕は彼女を親ではなく、女性としてカテゴライズしてしまったようだ。
そういえば父も彼女を“ママ”と呼ぶ。お母さんではない。父も何か後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。僕もママとあえて言ってみることにした。
*
高校を卒業して、僕は横浜の家を出て大阪の大学に進むことになった。引っ越しの日、彼女は玄関で小さな紙袋を差し出した。
「これ、向こうで使えると思って。たいしたものじゃないけど」
中には、手触りのいいハンカチと、シンプルなボールペン。どちらも、僕が好きそうな色だった。
「……ありがとう」
初めて、ママに向けて言葉を発した。彼女は驚いたように目を丸くして、それから優しく笑った。
「ううん。気をつけてね。困ったことがあったら、いつでも連絡して」
その笑顔が、胸に残ったまま離れなかった。
大阪へ向かう新幹線の窓から景色が流れていく。横浜を離れられてよかった。そう思うはずなのに、胸の奥はなぜか寂しさを感じた。
*
大学生活は忙しくて、楽しくて、刺激的だった。友達ができて、授業に追われて、バイトを始めて。気づけば、ママのことを考える時間は少なくなっていた。
そんなある日、同じサークルの女の子に告白された。ショートボブで、笑うと目尻が少し下がる。どこか、ママに似ている。
「よかったら、付き合ってみない?」
その言葉に、胸の奥がざわざわした。僕は頷いた。
彼女といると、安心する。でもその安心は、どこかで“ママに似ているから”という理由に支えられている気がした。
デートの帰り道、彼女が僕の腕にそっと触れた。その瞬間、横浜の家のリビングで本を読んでいた“ママ”の姿がふっとよぎった。
僕は思わず歩みを緩めた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと……」
なんでもないはずなのに、胸の奥が落ち着かない。自分でも理由の分からないざわつきが、しばらく消えなかった。
*
夏休み、久しぶりに横浜へ帰省した。玄関を開けると、ママが台所から顔を出した。
「おかえり。暑かったでしょ」
その声を聞いた瞬間、胸がきゅっとした。懐かしさと、安心と、少しの痛みが混ざったような感覚。
夕食のあと、ママは麦茶を持って僕の部屋に来た。
「これ、飲む?」
「……ありがとう」
受け取るとき、指先が少し触れた。それだけで胸の奥がざわついた。ママは気づいていない。当たり前だ。僕だけが勝手に反応している。
「大学、楽しそうでよかった」
「まあ、ぼちぼち」
「彼女、できたんでしょ?」
「……なんで知ってるの」
「お父さんが嬉しそうに話してたよ」
彼女は笑った。その笑顔が、胸に刺さる。僕は視線をそらした。父との会話は筒抜けかよ、と悲しく思った。
「今度、うちに連れて来なよ」
「……うん」
その言葉が、妙に重かった。
*
大阪に戻る新幹線の中で、僕はため息をついた。ママのことを考えてしまう自分が、情けない。でも、考えるなと言われても無理だ。
大学の彼女は優しいし、楽しいし、好きだ。でも時々、彼女の仕草の端々に“ママの面影”を探してしまう。そんな自分が嫌になる。
どうすればいいんだろう。答えなんて出ない。ただ、胸の奥でぐるぐると渦を巻く感情を、持て余すだけだ。
*
秋になり、大学のキャンパスは金木犀の香りで満ちていた。
大学の彼女が僕の腕に絡んでくる。
「ねえ、今度の連休、横浜案内してよ」
「え、横浜?」
「だめ?」
「いや、だめじゃないけど……」
横浜。あの家。ママ。胸がざわつく。でも、逃げるわけにもいかない。
「じゃあ、行くか」
「やった」
彼女は嬉しそうに笑った。その笑顔は、ママとは違う。似ているようで、違う。それが少しだけ救いだった。
*
連休、横浜へ。駅前の喫茶店で休んでいると、彼女が言った。
「ねえ、マサってさ、時々すごく遠くを見るみたいな顔するよね」
「そうか?」
「うん。なんか、誰かを思い出してるみたいな」
僕は思わずむせた。
「いや、別に」
「ふふ。まあいいけど」
彼女はストローをくるくる回しながら笑った。その仕草が、少しだけママに似ていた。胸がざわつく。でも、もう逃げない。
僕は深呼吸して、言った。
「……俺さ、ちょっと複雑な家族でさ。だから、横浜の実家に近づきたくないんだ」
「どういうこと?」
「俺のお母さん、ガンで亡くなったんだ。俺が子供の頃。そんで俺が高校の時、お父さんが再婚したんだよ。で、その新しいお母さんが苦手で」
嘘をついた。
「大学が大阪に決まって、ちょっと嬉しかったんだ」
「そうなんだ。それはちょっと悩むよね」
その言葉に、胸が軽くなった。ママのこと忘れて、目の前の彼女をちゃんと見よう。そう思えた。
*
帰り道、横浜の空は少し赤かった。駅へ向かう途中、ふと家の方向を振り返る。あの家には、ママがいる。でも僕は、もうそこに住んでいない。
「マサ、行こ」
彼女が僕の手を引いた。その手はあたたかくて、現実の温度だった。
僕は前を向いた。過去の影に振り返りながらも、ちゃんと歩いていける気がした。胸の奥のざわつきは、まだ完全には消えない。でも、それも含めて僕の人生だ。
***
そもそも、この物語の根底には「人は、触れてはいけない光に惹かれてしまう」という普遍のテーマがある。
光の君が藤壺に寄せた想いは、まさにそれだった。母の面影を宿す存在に、どうしようもなく心が向いてしまう。藤壺は決して振り向かないし、振り向いてはいけない。それでも光の君は、理屈では止められない感情に翻弄され続けた。
マサも同じだ。父の再婚相手という“触れてはいけない光”に、十七歳の心は勝手に反応してしまう。彼女はただ優しいだけで、恋愛の気配など一切ない。それでも、マサの胸の奥では、藤壺を見つめた光の君のようなざわつきが生まれる。
千年前の宮中と現代の横浜が、ふと重なる瞬間。人の心は、時代が変わっても同じように迷い、同じように影を抱え、同じように前へ進もうとする。マサが大阪で新しい恋を育てようとする姿は、光の君が藤壺の影を抱えながらも生きていった姿の、現代版のようにも見える。
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