戻ってくる場所
恋というものは、書けば書くほどため息が出る。まっすぐ進めばいいのに、進まない。寄り道して、迷って、勝手に傷ついて、勝手に救われる。そんな面倒な心の動きを、物語に書き留めるのが私の役目らしいけれど、千年前から人は同じことで悩み続けている。今日の話もまた、進めば壊れ、止まれば苦しい。そんな男の話である。
***
綾音の様子が少し変わった、と気づいたのは、ほんの小さな仕草だった。僕、高瀬陽介の話に返事をしながら、どこか遠くを見るような目をする。その視線の先に、後輩の姿があることに気づいたのは、もっと後になってからだ。
後輩を綾音に紹介したのは、ただの軽いノリだった。
「先輩の彼女、めちゃくちゃ綺麗じゃないですか」飲み会でそう囁いていたのを聞いた時、僕は笑って流した。綾音は誰からも褒められるし、後輩は素直なやつだ。
だから、危険なんて思わなかった。
その油断を、今になって心の底から後悔している。後輩は綾音の前では少し照れたように笑う。その笑顔が、僕の知らない綾音の表情を引き出していることに、ある日ふと気づいた。綾音は誰かに褒められると少しだけ目尻が下がる。その柔らかい表情を、僕は好きだった。でも、後輩と話す綾音は、僕が見たことのない“初めての顔”をしていた。
喫茶店で忘れ物を届けに来た後輩と綾音が二人で話していたあの日。僕が遅れて到着した時、綾音は少し頬を赤くしていた。その表情が胸に小さな棘を刺した。
「もっと遅くても良かったのに」綾音がそんなふうに思ったかもしれない、という想像が、僕を静かに苦しめた。
数日後、僕は何気なく言った。
「この前、綾音が“後輩って弟みたいで可愛い”って言ってたって、あいつに伝えといたよ」綾音は一瞬だけ、目を伏せた。その一瞬が、やけに長く感じられた。
「……そうなんだ」声が少し沈んでいた。綾音は、後輩に“線を引くため”に言ったのだと、あとで気づいた。なのに僕は、その線を自分の手で消してしまった。綾音の心に余計な波を立てたのは僕だ。
ある夜、僕は綾音を呼び出した。
「最近、後輩とよく話してるよね」綾音は驚いたように目を見開き、すぐに視線をそらした。
「……話すことはあるよ」
「僕より、後輩の方が話しやすい?」
沈黙。その沈黙が、答えだった。
「違うよ」綾音はようやく口を開いた。
「あの子、素直でしょ? 見てると、気持ちが落ち着くっていうか」落ち着く。その言葉を、綾音は僕に使ったことがなかった。
「俺じゃ、落ち着かない?」絞り出すように言うと、綾音は困ったように笑った。
「そういうことじゃないよ。陽介は……その……大人だから」その瞬間、僕は理解した。綾音は僕を好きでいてくれている。でも、後輩のまっすぐな視線に心が少し動いている。
翌日、僕は綾音にメッセージを送った。
「話したいことがある。今日、会える?」返事はすぐに来た。
待ち合わせのカフェで、綾音は少し疲れた顔をしていた。僕は深呼吸して言った。
「綾音。昨日のこと、ちゃんと話したい」綾音は驚いたように目を見開いた。
「綾音が誰かに褒められて気持ちが動くのは、悪いことじゃないよ。でも、それを一人で抱えてたことが辛かった」綾音は唇を噛んだ。
「……私ね。後輩の好意を拾っちゃうの、悪い癖なの。自分でも嫌になる」
「綾音。気になることがあったら言ってほしい。僕はそれを受け止めたい」綾音は小さく頷いた。
週末、綾音が僕の部屋に来た。玄関で靴を脱ぎながら言った。
「なんかね、最近すごく落ち着くの。前よりも、陽介の隣が自然っていうか」僕は綾音を抱きしめた。綾音は驚いたように息を飲んだが、すぐに腕を回してきた。
「……ちゃんとここにいるよ」その言葉は、僕がずっと聞きたかった言葉だった。
綾音は戻ってきた。そして僕は、その綾音を受け止める場所になれた。
***
そもそも、人は「触れてはいけない心」にほど近づきたくなるものだ。若き日の光の君が、春の夜に朧月夜と出会ったときもそうだった。薄い月明かりの中で見た彼女の横顔は、帝の寵愛を受ける身でありながら、光の君の胸に静かな熱を灯した。
袖が触れたのは一瞬だったが、その一瞬が二人の胸に深い痕跡を残した。しかし光の君は踏みとどまった。この恋が進めば、彼女も帝も、自分自身も傷つく。朧月夜の微笑みがどれほど魅力的であっても、光の君はその夜を境に距離を置くことを選んだ。触れたい気持ちを抑え、未来の痛みを予見し、ただそっと背を向けた――それが、光の君なりの優しさだった。
人は千年前も今も、心の迷い方は変わらない。ただ、引くべき時に引ける者だけが、恋の痛みを最小限にできる。そして、戻るべき場所を守れるのである。
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