静かに消える前に
この世界の声が、少し遠く聞こえるようになった。人々の影が淡くほどけていく。私のほうが、この世界から薄れているのだろう。それを、ただ事実として受け取った。
千年後に来た理由は単純だった。光の君の物語が千年を越えて読まれるかどうか、確かめる必要があった。不安というより、確認の不足。筆を進めるための材料が足りなかっただけだ。
この世界の人々は、私に気づかない。私は名を名乗らず、姿を見せず、ただ、風の隙間のように存在している。それで十分だった。
誰かと関わる必要はないし、関わったところで、何かが変わるわけでもない。
それでも、いくつかの場面に遭遇した。
***
雨の夜、横浜駅前で立ち尽くす女性がいた。傘はなく、濡れた髪が頬に貼りついていた。スマートフォンの画面に短い文字が浮かんでいた。
「ごめん。もう会えない。」
その一行を見た瞬間、彼女の肩がわずかに沈んだ。泣いているのだと分かったが、私は特に何も感じなかった。
千年前にも同じような場面はあった。恋が終わると、人は泣く。それだけのことだ。
私は彼女のそばに立った。見えないし、触れられない。ただ、そこにいるだけ。
彼女は小さく言った。
「……大丈夫。私、ちゃんと生きる。」
その言葉に、私は少しだけ興味を持った。
人は、恋が終わっても生きる。千年前もそうだったし、千年後も同じらしい。それを確認できたので、私はその場を離れた。
***
翌日、カフェで中年の男性が古い手紙を読んでいた。黄ばんだ封筒。破れた便箋。恋文だとすぐに分かった。
読み終えた彼は、静かに目を閉じた。そして、誰にも聞こえない声で言った。
「……あのとき、返事を出していればな。」
後悔の色があった。だが、それも千年前と同じだった。恋は、終わったあとも人の中で形を保つ。それが人生の一部になる。それだけのことだ。
私は、彼の横顔を少しの間だけ見て、席を離れた。特別な感情はなかった。ただ、確認が一つ増えただけ。
***
この世界で見た恋の影は、どれも千年前と同じだった。人は迷い、揺らぎ、傷つき、
それでも前へ進む。その事実が揺らがないことを知ったので、私は戻る準備を始めている。
私は、そろそろ戻る。けれど、あと少しだけ、この世界の恋の影を見ておきたい。
声が遠く聞こえるのは、私の存在が薄れている証だ。影がほどけるのも、帰還の前触れだろう。
私は雲のように歩いてきた。誰の人生にも痕を残さず、風向きを少し変えるだけの存在だった。だから、私がいなくなっても誰も気づかない。それでいい。
あと少し、覗き終えたら、私は帰る。千年前の机へ。筆の続きへ。物語の終わりへ。
私は戻る。ただ、その前に、もう少しだけ。この世界の恋の影を確認しておきたい。
私は歩き出した。雨の夜の女性も、古い手紙の男性も、どれも千年前と同じだった。
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