触れたいのに触れられない
空蝉という女は、家の掟に縛られながらも、心の奥に静かな熱を秘めた人である。忍ぶことを身に刻み、寄せられた想いを受け止めつつも、応じる術を持たない。その退き際は冷たさではなく、己を守るための強い節度である。触れられぬ距離を保ちながら、胸の内では確かに揺れた情が息づく――その矛盾が、彼女をいっそう深く美しく見せる。
昔から男というものはどうしてこう、触れたいだの抱きしめたいだのと胸の内ばかり熱くして、肝心なところで手を伸ばし損ねるのだろう。逃げ腰の女に惹かれては、追いかけて、勝手に傷ついて、また追いかける。まったく、懲りない生き物である。
けれど、そんな愚かさこそが恋のいちばん愛おしい部分なのかもしれない。触れられない距離に手を伸ばす、その瞬間の切なさ。抱きしめたいのに抱きしめられない、その胸の痛み。わたしは昔から、そういう男たちの不器用さを眺めるのが嫌いではなかった。
さて、今の若者もまた、見事に空振りしているようだ。逃げる女、追う男。触れたいのに触れられない距離。わたしの時代から、何ひとつ変わっていない。恋というものは、ほんとうに進歩がない。
***
彼女のことを思い出すとき、最初に浮かぶのは“距離”だ。ほんの数十センチ。手を伸ばせば届くはずの距離。なのに、僕が触れようとすると、彼女はいつもその一歩ぶんだけ遠ざかる。
触れたい。抱きしめたい。ただそれだけなのに、どうしてこんなにも難しいのだろう。
彼女と歩いた夏の夕方。駅前のざわめきが遠くに沈んで、僕らの足音だけがアスファルトに落ちていた。彼女は白いブラウスの袖を指でつまみ、どこか落ち着かない笑みを浮かべていた。
その横顔を見た瞬間、僕は思った。
触れたい。
指先で頬の線をなぞりたかった。肩にそっと手を置きたかった。抱きしめたら、きっとあたたかいのだろうと思った。
でも、僕がその一歩を踏み出す前に、彼女はふっと目をそらした。その仕草が、風に押されて向きを変える木の葉みたいに軽かった。ああ、今日も触れられないんだな。その予感だけが胸に残った。
*
ある夜、僕は覚悟を決めた。彼女に気持ちを伝えようと、駅前のカフェで待ち合わせた。
彼女が来るまでの十五分、僕は何度も深呼吸をした。言葉を整えて、順番を考えて、失敗しないように準備した。でも、彼女は僕の前に座るなり、先に言った。
「ねえ、今日でちょっと区切りにしようと思って」その瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
『ちょっと待ってーー』、僕は思わず手を伸ばしそうになった。止めたかったわけじゃない。ただ、触れたかった。彼女の体温を、最後にひとつだけ確かめたかった。けれど、僕の指先が動くより早く、彼女はストローをくるくる回しながら続けた。
「あなたのこと、嫌いになったわけじゃないよ。むしろ、好きだったよ。優しくて、まっすぐで。でもね…、私はあなたみたいな立派な人間じゃないの。あなたがまぶしすぎるの。私は大した人間じゃない」
僕は笑うしかなかった。まぶしすぎる?僕のどこが。むしろ、彼女のほうがよっぽど光っていたのに。
「だからね、逃げちゃうの。あなたに触れられそうになると、怖くなるの。私、ちゃんと向き合える自信がないの」その言葉は、優しいのに残酷だった。優しいからこそ、逃げる理由が本物に聞こえてしまう。僕は彼女の言葉を否定できなかった。
「ごめんね」彼女はそう言って、椅子の背にかけていた薄手のストールをそっと畳んだ。その仕草が、妙に丁寧で、妙に静かで、妙に遠かった。
僕は触れたかった。腕を伸ばして、彼女の手首をそっとつかみたかった。「行かないで」と言いたかった。抱きしめて、彼女の震えを確かめたかった。でも、僕は何もできなかった。彼女の背中が立ち上がるのを、ただ見ていた。
残されたのは、彼女の飲みかけのアイスコーヒーと、椅子の背にかけられたままの、薄い香りの残るストールだった。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。
ああ、これは彼女の“ぬけがら”のようだ。
さっきまで確かにそこにいたはずなのに、気配だけが残って、本人はいない。温度の抜けた布切れだけが、僕の前に残されている。
僕はストールを手に取った。軽くて、頼りなくて、彼女そのものみたいだった。触れたら、ほんの少しだけ彼女に近づける気がして、僕はそっと指先で布をなでた。冷たかった。当たり前だ。でも、その冷たさが余計に切なかった。
本当は、あたたかい彼女を抱きしめたかった。逃げる前に、腕の中に閉じ込めたかった。彼女の背中に触れて、
「大丈夫だよ。僕だって大した人間じゃない。僕には君が必要だ」と言いたかった。それが叶わなかったことが、胸の奥でずっと疼いている。
*
家に帰ってからも、僕はそのストールを机の上に置いたまま、しばらく眺めていた。そこに彼女がいた気配だけが残っている。触れたら壊れそうで、でも触れずにはいられなかった。彼女は最後まで僕から逃げた。理由を言ってくれただけ、誠実だったのかもしれない。けれど、逃げるという点では、やっぱり彼女は“ぬけがらを残す人”だった。
僕は何度もため息をついた。滑稽だと思った。逃げられてばかりの男なんて、物語の主人公にもなれない。でも、僕は諦められなかった。
彼女の優しい別れ言葉が、逆に僕を縛った。
「嫌いじゃなかったよ」その一言が、僕の胸を締めつける。嫌いじゃなかったなら、触れられた未来も、抱きしめられた夜も、どこかにあったのかもしれない。だから僕は、ストールを握りしめて呟いた。
「まだ、諦めない。今度こそ、触れられる距離まで行く」
逃げられても、また追えばいい。触れられなかったなら、次は触れればいい。抱きしめられなかったなら、次こそ抱きしめればいい。僕は、彼女を何度でも口説く。何度でも追いかける。何度でも、触れたいと思う。
だって、ぬけがらが残るということは、そこに確かに“抱きしめたかった彼女”がいた証拠なのだから。
***
そもそも、男と女の距離というものは、近づけば近づくほど曖昧になり、触れようとした瞬間にするりと逃げられるものだ。わたしの時代にも、似たような殿方がいた。光の君は、逃げる女を追うことにかけては天下一品であった。
ある夜、光の君はひそかに想いを寄せる女のもとへ忍び寄った。女は気配に気づき、息を呑んだまま衣を脱ぎ捨て、闇の向こうへ消えた。彼が手にしたのは、温もりの抜けた衣だけ。触れたかったのは女そのものなのに、残されたのは形だけのぬけがら。彼はその衣を胸に抱き、しばらく動けなかったという。
逃げる女の影を追い続ける光の君の姿は、今の若者と少しも変わらない。触れたい、抱きしめたい、その願いが叶わぬまま残された“ぬけがら”だけが、恋の痛みを静かに語るのだ。
恋というものは、時代が移ろっても、結局は同じところで人を泣かせる。まったく、困ったものだ。
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