先輩の彼女が美人すぎる件
昔から、人の心というものは、ふとした瞬間に揺らぐものだ。たとえ相手が誰かの恋人であっても、胸の奥でドキドキすることがある。それは人の性なのであろう。
目の前の人の美しさに、ついつい心を奪われてしまう。今も昔も変わらない。
***
先輩の彼女を初めて見たのは、会社の飲み会だった。
「紹介するよ」と先輩に言われた瞬間、僕は思わず姿勢を正した。美人すぎた。いや、正確に言うと、美人すぎて目を合わせるのが怖いくらいの人だった。
髪は肩にかかるくらいで、少し茶色い。笑うと目尻が少し下がり、優しい顔になる。でも、黙っていると近寄り難い雰囲気だ。
*
「後輩くん、飲める?」と言って、僕のグラスにビールを注いでくれた。
「あ、ありがとうございます」
声が裏返りそうになるのを必死でおさえた。
先輩は隣でみんなと楽しそうに話している。
僕はというと、なぜかドキドキが止まらない。いやいや、落ち着け。この人は先輩の彼女だ。僕が意識する理由なんて、1ミリもない。だけど、彼女が笑うと僕の視線は勝手に吸い寄せられる。そのたびに胸がざわざわする。
「後輩くんって、優しそうだよね」不意に言われて、ビールをこぼしそうになった。
「え、いや、そんなことないっす」
「先輩、いい後輩くんに恵まれたね」
「だろ!」と先輩が笑う。その瞬間、心の奥で「これ以上は危険だ」というアラームが聞こえた気がした。
*
数日後、先輩に頼まれて資料を届けに行った。先輩の家の近くのカフェで待ち合わせた。
到着すると、先輩の彼女がひとりで座っていた。今日も美しい。
「先輩、ちょっと遅れるって。ごめんなさいね、待たせちゃって」え、二人きり?いやいや、これはまずいでしょ。ドキドキしてきた。
「コーヒー頼む? 奢るから」
「いえ、そんな…」
「いいの、先輩が遅刻してるから」そんな顔で言われると危ない。ほんとに危ない。
コーヒーが来るまで二人で話した。他愛もないことだったけど、楽しかった。コーヒーが来ると同時に先輩が到着した。もっと遅くても良かったのに、なんて思った。
三人で会話し、少しして解散した。帰り道、僕はずっと考えていた。やば。僕は先輩の彼女に恋してる。間違いない。先輩の彼女だ。絶対にダメなやつだと分かっていても止められない。彼女の顔が目に焼き付いている「おい、やめとけ」と自分に言い聞かせた。
*
翌週、先輩が言った。
「この前さ、彼女が“後輩くん、いい子だね”って言ってたよ」
「いやいや、そうですか」
「なんか、弟みたいで可愛いってさ」
はー、弟? 弟か。よくないけど、まぁ、いいか。なぜか僕のドキドキは急に冷めていった。そうそう、これでいいんだよな。
僕は今日も先輩と仕事をしている。彼女のことは胸の奥にしまっておこう。しまっておけそうな気がする。たまに思い出して、「危なかった」と笑えそうな気になった。
***
そもそも、人は時に“好きになってはいけない人”に心を奪われることがある。それは今も千年前も同じだ。
光の君がまだ若かった頃、彼は朧月夜という女性に心を奪われた。夜の庭で偶然出会った彼女は、気品があり、どこか影を帯びた美しさを持っていた。
しかし彼女は帝の愛人であった。つまり、本来、思いを寄せてはならない相手だった。それでも光の君は惹かれてしまう。けれど、彼はその思いを深めることは選ばなかった。
彼は知っていたのだ。この恋が実ると、彼女も、帝も、自分自身も、誰ひとり幸せにならないことを。だから光の君は、彼女の前では心のうちを悟られぬように振る舞い、そして最後には“思いを胸にしまったまま身を引く”という選択をした。
今日の「僕」が見せた節度も、そんな遠い記憶のかけらのように思える。人は昔から、どこかでそっと線を引いて生きてきたのである。
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