静かに息をする恋
恋というものは、どうしてこうも人を愚かにするのだろう。書き手のわたしが言うのもなんだけれど、世の男女は自分の胸の内を持て余して、勝手に悩んで勝手に沈んで、最後には「どうすればよいのでしょう」なんて、まるで子どもみたいに泣きついてくる。そんなもの、知らないわよと言いたいのに、結局わたしは筆を取ってしまう。まったく、損な役回りだと思う。
それに、騒がしい恋ばかりが世に満ちているわけでもない。派手に求め立てる者もいれば、静かに息を潜めるように寄り添う者もいる。そういう者を見ると、わたしは少し苛立つ。けれど、静かな愛というものは、案外しぶとい。声を荒らげずとも、深く根を張る。わたしが書いてきたどの恋よりも、長く残ることがある。今回の彼女もまた、そんな“静けさの中で芽吹く恋”を選んだらしい。
***
六月の終わり、職場の空調が少し強すぎる午後。わたしは薄手のカーディガンを肩にかけながら、隣の席の彼のタイピング音を聞いていた。
彼――佐伯さんは、いつも静かだ。声を荒らげることもなく、誰かを急かすこともなく、淡々と仕事を進める。派手さはないけれど、気づけば周囲の空気を整えてくれる人だ。わたしがその穏やかさに惹かれていることは、もちろん誰にも言っていない。
昼休み、給湯室で紙コップにお茶を注いでいると、背後から声をかけられた。
「冷房、強いですよね。大丈夫ですか」振り返ると佐伯さんが立っていた。
「ちょっと寒いですけど、平気です」
「これ、よかったら」差し出されたのは、彼の席に常備されている薄いブランケット。
「いえ、そんな……」
「返してくれればいいので」その言い方が、あまりにも自然で、押しつけがましくなくて。わたしは受け取るしかなかった。
席に戻ると、ブランケットの柔らかい布が腕に触れた。――こういうところが、好きなんだよな。胸の奥でそう思った瞬間、自分でも驚くほど素直だった。
でも、わたしは彼に恋をしていることを誰にも言っていない。言えば壊れる気がするからだ。こっそりと想ってるだけでいい。そんなふうに思っていた。
*
七月の初め、部署の飲み会があった。わたしはビールを一杯だけ飲んで、あとはウーロン茶に切り替えた。
席替えがあって、気づけば佐伯さんの隣に座っていた。
「飲みすぎてないですか」
「大丈夫です。ビールは好きですけど、弱いので」
「そうなんですね」彼はそれ以上聞いてこないことが、心地よかった。
帰り道、駅までの夜風が少し湿っていた。
「家、こっちですか」
「はい。佐伯さんは?」
「反対方向ですけど、少しだけ歩きます」そう言って、わたしの歩幅に合わせてくれる。わたしはその優しさに甘えながら、ゆっくりと歩いた。
駅前の信号で立ち止まったとき、彼がぽつりと言った。
「今日、楽しそうでしたね」
「え、そうでした?」
「はい。よく笑ってました」わたしは一瞬、言葉を失った。そんなふうに見てくれていたんだ。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
*
翌週、わたしは仕事で小さなミスをした。資料の数字を一桁間違えて提出してしまい、上司に軽く注意された。
落ち込んで席に戻ると、佐伯さんが声をかけてきた。
「大丈夫ですか」
「……ちょっと、へこんでます」
「誰でもありますよ。僕も昨日、入力ミスしました」
「え、そうなんですか」
「はい。だから気にしなくていいと思います」わたしは思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「いえ。……あの、もしよかったら、帰りに甘いものでも食べませんか」
ドキドキする。
誘われたのは初めてだった。でも、彼の表情はいつもと同じで、特別な色はない。だからこそ、わたしは返事に迷った。期待していいのか、わからない。
「……いいですよ」気づけば、そう答えていた。
*
駅近くのカフェで、わたしたちはチーズケーキを半分ずつ食べた。
彼は甘いものが苦手らしく、フォークをゆっくり動かしていた。
「無理してません?」
「ちょっとだけ。でも、美味しいですよ」その言葉が嬉しくて、わたしは笑った。
帰り際、店を出たところで、彼が少しだけ立ち止まった。
「……あの」
「はい」
「今日、誘ったのは、理由があって」
心臓がまたドキドキする。
夜風が頬を撫でる。
彼は視線を落としたまま、続けた。
「今日、落ち込んでるのを見て、放っておけなかったんです」
「……」
「それだけじゃなくて。もっと……その……」言葉を探すように、彼はゆっくり息を吸った。
「もっと話したくて......」その瞬間、胸の奥が熱くなった。
わたしは何も言えなかった。ただ、彼の言葉が、静かに、深く、心に落ちていく。
「迷惑じゃなければ、また……一緒に帰りませんか」強く求めず、押しつけず、ただそっと寄り添う。
「迷惑じゃないです」声が震えた。
「むしろ、嬉しいです」彼はようやく顔を上げて、少しだけ笑った。その笑顔を見た瞬間、わたしは確信した。――この人を好きになってよかった。
*
それから、わたしたちは週に一度だけ、一緒に帰るようになった。特別なことは何もない。
手をつなぐわけでもなく、恋人らしい言葉を交わすわけでもない。ただ、並んで歩くだけ。でも、その時間が、わたしにとっては何より大切だった。
ある日、彼がぽつりと言った。
「二人で話が出来ると、落ち着きます」
「わたしもです」その言葉を交わしただけで、胸が満たされた。
派手ではないけれど、静かで、穏やかで、心が安らぐ関係。わたしはそんな愛を望んでいたのだと思う。
そして今、わたしは彼の隣を歩きながら、そっと思う。――この人の人生に、静かに寄り添える存在でいたい。
強く求めなくても、奪わなくても、ただそばにいるだけでいい。そんな愛し方を、わたしは選びたい。
夜風が少しだけ涼しくなった帰り道。
彼がわたしの歩幅に合わせてくれる。
その優しさに、胸がまた温かくなる。
わたしはブランケットを返した日のことを思い出しながら、そっと笑った。――静かで、穏やかで、優しい愛を。わたしは、彼と育てていきたい。
***
そもそも、静かな愛というものは、派手な恋よりずっと骨が折れる。求めれば重くなり、引けば離れてしまう。わたしは昔、それを目の前で見てきた。
光の君がまだ若く、恋の華やかさに酔っていたころのこと。彼は多くの女性に囲まれていたけれど、ある時期だけ、妙に落ち着いた顔をしていた。理由を尋ねれば、「あの人は、わたしを急かさない」と言う。
その女性は、決して自分から強く求めず、光の君が訪れれば静かに迎え、来なければ無理に呼び寄せることもない。ただ、彼が疲れたときだけ、柔らかく受け止めていた。
最初、光の君はその静けさを物足りなく思ったらしい。けれど、忙しさや孤独に押しつぶされそうな夜、ふと気づいたのだという。「あの人の家に行くと、息がしやすい」と。
愛は声の大きさでは測れない。静けさの中でこそ、深く根を張ることがある。今回の主人公の恋もまた、その静かな根を伸ばし始めたばかりなのだろう。
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