16、君の色、僕の色
西日を遮るために、分厚いカーテンが引かれた美術室。
カチカチ、カチ。
時計の音だけがする。
僕は、白い蛍光灯の光の下で、描きかけの絵を見ていた。
キャンバスには、夕焼けの校庭が描かれている。
オレンジの空と、紫の雲、それから少し赤い灰色の校舎。
だけど、メインとなるけやきの木、その葉の色がどうしても決まらない。
「やっぱり決められない」
僕はつぶやいた。
「どんな絵が人の心を打つっていうんだよ」
僕は頭をかいた。
週末に行った美術館。
そこで見た芸術家の絵を思い出しながら考える。
だけど。
僕には答えがわからない。
「ああ、くそ」
展覧会までの日数を考えると、描き直すなら今がリミットだ。
「いや、数日、徹夜で作業すれば、まだ余裕があるか」
「やめときなさいよ」
「えっ?」
いつのまにか僕の隣に立っていた、同じ美術部の女子。
首を傾げながら、描きかけの僕の絵を見る。
「私はいいと思うけど?」
彼女も美術室に残っていて、まだ自分のキャンバスと格闘していることには気づいていた。
いや、あんまり気にしてなかったかもしれない。
「邪魔して悪かったね」
「別に、いいわよ」
彼女はその場で、グゥーっと伸びをする。
「少し休もうと思ってたし」
「そっか、ならよかった」
「気を使っただけよ」
「……ごめん」
僕が謝ると、彼女は少しほほえむ。
「ああ、くそ」
「マネすんな」
「いいじゃない。それだけ本気ってことでしょ?」
彼女は教室の中を見回す。
「他の連中は、とっくに帰っているわ」
「絵に向き合うスタンスは、人それぞれだろ?」
「そうね」
彼女はうなずく。
少し前屈みになり、覗き込むように、僕の絵を見る。
団子にした髪が、顔の動きに合わせてピョコピョコと揺れている。
なんか恥ずかしい。
「幹は、ずいぶんと細かいところまで書き込んでいるのね」
「あぁ、そこはボヤかすとよくないって思って、だからかわりに、こっちの校舎を軽くしてる」
「なるほど。それで、葉の色は?」
「そこは……」
「迷ってるってわけね」
僕は答えたくなくて、黙った。
カチカチ、カチ。
壁の時計の秒針が、リズムを刻む。
彼女が前屈みのままで、僕の顔を振り返った。
「ああ、そうだよ。迷ってる」
「なにを迷っているのよ。ここって……」
「そうなんだ。この絵の核心は、このけやきの葉だよ」
「見たままに緑主体で書くか、それとも、他の色も入れて一枚一枚に個性を持たせるように描くかってこと?」
彼女が首をかしげる。
「あの顧問が言ったことを気にしてるってわけね」
「別に……」
僕は目を逸らす。
彼女は体を起こして、胸の前で腕を組んだ。
「次の展覧会は、芸術性よりも、技術的なことを評価する傾向にある」
「今度は顧問のマネかよ」
僕は鼻で笑う。
彼女が目を細めた。
「バカね」
「なっ、バカはないだろ?」
彼女が首を振る。
「それは、昔の話よ」
「えっ?」
「これまでを思い浮かべてみなさい。あんたが負けた作品に、芸術的じゃない物がひとつでもあった?」
「あっ」
僕が間抜けな声を出す。
「ほら、ご覧なさい」
彼女が呆れ顔になる。
「まったく、あの顧問、どこで聞いてきたんだか、知ったようなこと言って」
「いやいや」
「なに?」
彼女が僕を睨む。
カチカチ、カチ。
時計が急かす。
「……言い過ぎじゃない?」
「普段は部活にほとんど顔を出さないくせに、変なこと言い出すから悪いのよ」
「それは、まあ、そうだけど」
「おかげで部員は、ほどほどにやって遊んでる」
彼女は閉まっている扉を睨む。
「クラスのやつらまで、美術部はお気楽でいいな、とか言ってくるし」
「それは、僕も言われたことある」
「この前なんて、軽音学部にまで言われたのよ」
「ああ」
「あいつらだって、誤解されやすいんだから、こっちの苦労も察しなさいっての」
彼女は、はぁと息を吐いた。
「徹夜してまで描こうとしている、バカもいるのに」
「それって……ほめてくれてるんだよね?」
「違うわよ、バカ」
彼女はまた、僕の絵に目を向けた。
「私は好きだけど」
僕は彼女の横顔を見る。
「本当にそう思う?」
「思うわよ、悪い?」
彼女が、僕を見た。
「自分では、そう思えないのね」
「言っちゃえば、そうだね」
カチカチ、カチ。
時計の音だけが、美術室に響く。
また僕の絵を見た彼女が、少しうつむいた。
「あのさ」
小さく言う。
「私たちの見ている世界が同じだという保証って、ないわよね?」
「どういう意味?」
僕は首をかしげる。
「例えば、私が見ている赤とあんたの見ている赤、本当は違うかもしれないじゃない?」
「いや、何言ってんの、赤は赤でしょ?」
「違うわよ」
「違わないって、血の色、信号の止まれ、それから……」
顔を上げた彼女が僕を見つめて、ゆっくり首を振った。
「そうじゃなくて、本質の話」
「本質?」
「あんたの赤と、私の赤、本当に同じだと思う?」
「それは、君にとっての赤色が、僕には青く見えて、僕にとっての青色が、君には緑に見えているかもしれないってこと?」
彼女の答えを待たずに、僕はさらに聞く。
「何が言いたいの?」
「あんたに価値がないものも、私には価値があるかもしれないってこと」
彼女が真っ直ぐ僕を見つめたままで言う。
それがあまりにも真剣だから。
僕は、ふふっと笑ってしまう。
「なによ、馬鹿にしてんの?」
彼女は頬をふくらませて、手を腰に当てた。
いつもの顔に戻っている。
「違うよ」
「じゃあ、なによ」
「ありがとう。でも、よく恥ずかしくないなぁって、ちょっと思った」
彼女は顔を赤くする。
「あーっ」
言いながら、しゃがんで頭を抱える。
「本当にありがとう」
「うるさいわよ」
「あんたに価値がないもの……」
「やめて」
しゃがんだままで、顔だけ上げた彼女が僕を睨む。
耳がまだ赤い。
「おかげで肩の力が抜けたよ」
「そう、なら良かったわ」
彼女は、すっと立ち上がる。
なぜかスカートを払うみたいな動きをする。
ふぅっと息を吐く。
それから、自分の絵の方に戻って行こうとする。
「私には細かいところにまで気を使っている思いが、ちゃんと届いてるわ」
僕が、また「ありがとう」と言おうとしたとき、彼女が振り返る。
「まあ、ひいき目もあるけど」
そしてまた歩き、さらに振り返る。
「でも、絵以外のデリカシーはないわ。バカ」
彼女が、プンプンって効果音がつきそうな勢いで歩いて行く。
僕は、その姿に笑ってしまう。
「ありがとう」
彼女は小さく手を上げる。
団子の髪が、いつものようにピョコピョコ揺れている。
僕はまた、キャンバスと向き合う。
カチカチ、カチ。
時計の秒針に急かされながら。




