11、雨の日に飛んだ、小さな宝石
夏が来る前の長雨が、しとしとと降っている。
中庭にある池に小さな波紋を作っていた。
雨の日は憂鬱。
僕は手に持っていた文庫本を閉じて、机に置く。
「それにしても、よく降るな」
池に沈み、水面から少しだけ顔を出している枯れ枝。
そこに止まっていた小鳥が、「チー」と鳴いて、飛んだ。
「おお、カワセミじゃん」
「えっ?」
僕の声に反応した隣の席の女の子が、慌てて窓に張り付く。
「どっ、どこ?」
「あそこだよ、ほら」
「あっ」
灰色の空を映した水面の上を滑るように飛ぶ、カワセミ。
鮮やかな羽が、校舎から漏れ出ている光に、煌めく。
「本当だ。きれい」
「そうだな」
「さすがは飛ぶ宝石ね」
「飛ぶ宝石?」
「そう呼ばれているんだよ」
彼女が振り返る。
「へぇ、そうなのか」
「うん」
「こんな日だから、きれいに見えるのかもしれないけどな」
「……そうだね」
彼女はまた、カワセミが飛び去った空を見つめた。
「鳥っていいよね」
「まあ、自由に空を飛びまわるのは気持ちいいだろうな」
「そうだよね」
僕は、チクタクと進む壁の時計を見た。
昼休みはまだ、二十分もある。
僕はまた、窓の外を見た。
厚く垂れる雲。
「自由になりたいのか?」
「えっ?」
「いや、鳥に憧れるってさ」
「そうだね。息苦しいと思うことはあるね」
そんなふうに呟いた彼女を見ていたら、一週間前の親とのやり取りを思い出した。
「あんた、テストは大丈夫なの?」
「だから、大丈夫だって」
僕は、読んでいた文庫本から顔を上げる。
「遊んでないで、やりなさいよ」
「わかった」
「前日になって焦るのはあんたなのよ」
「だから、わかったって」
母さんは首をかしげる。
「本当にわかってるの?」
「ああ」
「じゃあ、それは?」
「読書?」
僕は、自分が持つ文庫本を見た。
「あのね……まあ、いいわ。好きにしなさい」
母さんが呆れ顔になった。
「誰だって、勉強なんてしたくないのよ。それでもやってるの」
「将来のためなんだろ、聞き飽きたよ」
「聞き飽きるほど、言わせているのよ。あんたが」
はぁと息を吐く。
「どうしたらやる気を出すのかしら?」
「母さん?」
「テストで順位を下げたら、あんたの大切なライトノベルはすべて売るわ」
「なっ?」
僕が驚くと、母さんがニヤリと笑う。
「ママ友とのランチが楽しみねぇ。ホテルのケーキバイキングに行っちゃおうかしら」
「そんなの横暴だろ?」
母さんは答えない。
入り口で顔だけ振り返る。
もう一度ニヤリとしてから、僕の部屋の扉をゆっくり閉めた。
僕がそんなことを思い出しながら、彼女を見ていると彼女が振り返った。
「いつもなにを読んでいるの?」
「ライトノベル」
「ああ、転生したら◯◯だった件みたいなやつ?」
「まあ、そればかりでもないけど」
「そうなんだ。面白いの?」
僕は机の上の文庫本を見る。
「読み始めると先が気になるんだ」
「確かに、本ってそういうところ、あるよね」
「そういえばお前も、いつも読んでいるよな?」
「うん、私は恋愛小説とか、ミステリーが多いよ」
「それは、為になったりするのか?」
「為になる?」
彼女が首をかしげる。
「うちの親がな」
「ああ」
「読書ってのは、そういうもんだって。意味わかんないし」
「そうだね。読書って楽しむものなのに……」
「そうだよな?」
僕が前のめりになると、彼女は少し身を引く。
「ああ、悪い」
「大丈夫だよ」
「なんなんだよ。自分だってテレビばっかり見ているくせに」
「そうそう」
彼女はクスクスと笑う。
ちっちゃくて、さっきのカワセミみたいだな。
「転生できたら、カワセミになりたいか?」
「転生?」
「ああ」
「そうだね」
彼女は窓の外を見て、目を細める。
「狩りが得意なカワセミになって、小魚やエビを食べて、水辺でのんびりと暮らせたらいいね」
「すぐに、鷹とかに食われそうだけどな」
「ひどい」
彼女が僕を見る。
「ガンガン敵を倒して、レベルを上げて、俺ツェするのか?」
「しないよ」
「神からチートもらって、イケメンたちを何人も侍らせるか?」
「なんでよ」
「希少な物を……」
「もういいって」
彼女が苦笑いを浮かべた。
「私はスローライフがいい」
「あのな、ライトノベルでスローライフって付いているのは、みんな」
「みんな?」
「スローライフなんかしないんだよ」
「えっ?」
彼女が驚くから、僕はクックックッと笑う。
「よく考えてみろ。本気のスローライフなんて読んで楽しいか?」
「面白いんじゃない?」
「枯れた田舎ぐらしだろ?」
「ひどい偏見」
彼女が笑う。
「じゃあ、どんなのだ?」
「都会の時間に追われる暮らしに疲れた人が、田舎でのんびり畑仕事をしたりしながら暮らすことでしょ?」
「なんだ、ライトノベルのスローライフじゃないか」
僕は思わず首をかしげた。
「そうなの?」
彼女も首をかしげる。
「そうだ。神様からチートをもらったやつが、魔獣の住む森を開拓したり」
「なんで、魔獣の住む森?」
「仲間に裏切られた男が、寂れた村に道具屋を開いて、元お嬢様と幸せに暮らしたり」
「そこは村娘と幸せになってよ」
「働きすぎて死んだ会社員の女性が貴族に転生して、のんびり」
「あのね、貴族って忙しいと思うよ」
いちいち彼女がツッコミを入れるから、僕は笑う。
「だけど、君は勉強しなくていいの?」
彼女が教室内を見回す。
他のクラスメイトたちのほとんどが、必死に勉強していた。
他におしゃべりしているのは、美術部のやつらぐらい。
あとは、友達に教えている剣道部の女子と。
それから、机に突っ伏して寝ているサッカー部のエースとダンス部の女子。
「ああ、テストで順位を下げたら、ライトノベルがすべて売られてしまうからな。それなりにはやってきた」
「そうなんだ」
「お前は心配ないよな」
「うん、それしか取り柄がないから」
「取り柄があるだけマシだろ?」
僕が笑うと、チャイムが鳴った。
テストが始まると、僕は比較的スラスラと解いた。
そして、十分前にはすべて解き終えた。
これで、僕のライトノベルは守られた。
僕は、教壇で本を読んでいる先生を見る。
先生は、鼻にかけているメガネを少し下げて、腕時計を確認する。
それからまた、本に目をやった。
ライトノベルだったりして。
って、そんなわけねぇか。
僕はまた、窓の外を見る。
「あと五分だぞ」
教壇に座っている先生が、声をかける。
チッ、チッ、チッ。
壁の時計は、確かに五分前を指している。
「終わっているやつも、もう一度見直しをしろよ。名前はちゃんと書かれているか?」
僕はそれに合わせて、机の上に裏返しにしておいたテスト用紙を表に直して、確認する。
うん、名前は大丈夫だな。
僕は、それを見ながら満足げにうなずく。
「それから」
先生が続ける。
「たまに居るんだが、解答欄が一つずつずれていたりすると、悲惨なことになるぞ」
さすがに、そんなことは、あるわけないよな。
僕は、頭から確認していく。
嘘だろ……。
三問目の、完全にわからない問題をパスした所から、回答がきれいに一つずつずれている。
いやいや、いや、なんで最後に気づかなかった?
解答欄が一つ余るとか、普通にありえないだろ。
僕は消しゴムで消しながら、回答を直していく。
視界の端に、心配そうな彼女の顔が映るが、それどころではない。
周りの生徒たちも気がついたのか、少しざわざわしている。
僕のライトノベルがぁ。
「急げよぉ」
言われなくてもわかってるよ。
僕の心は、ばちばちと打ち付ける雨に乱されていた。




