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家庭教師、命名する


「斎迩の君。今日も泊まって行かれるでしょう?」


 大姫の心もち上ずった声には気づかないフリをして、わたしはにっこり頷く。

 雨彦が言うとおり、次はいつ来られるか分からない。本当にこれが最後かもしれない。平安時代でどれだけ過ごそうと現代には影響がないのだから、できるだけ長く、大姫とその仲間たちと一緒に過ごそうと思った。


 パパ殿は、内裏だいり宿直とのいらしい。戻りは明朝なので、相談事は明日の昼以降となった。例によって、お風呂と夕餉ゆうげをみなさんとご一緒して、今晩は大姫の寝間で寝ると約束させられる。


「嬉しいわ、斎迩の君。いっぱいお話しましょうね。ああでも、さっきのおやつ、この顔ぶれであんなに笑ったのって、いつ以来かしら。本当に……、楽しかったわ」


 わたしの記憶の中のように屈託のない笑顔を見せてから、ふっと大姫はまつ毛を伏せた。


「大姫様。殿様がお帰りになる前に、少しお話いたしましょうか」


 大姫の鬱屈はかなり深い。心配になってそう申し出たが、大姫は力なく首を振って、


「あ、いえ、大丈夫、よ。あの……、わたくし、少し休んでもいいかしら」


 大輔たいふの君がわたしを見て、そっと頷く。けら男はぐっと拳を握ったまま、動こうとしない。


「分かりました。では、わたしは、いなご麿の名前を考えてきますね。――大姫様。以前にお約束したとおり、わたしは大姫様の味方です。殿様も世間も敵に回しても、わたしのことは、味方だと信じていてください」


 びくっとする大姫に、大輔の君がうちぎを着せかけた。

 わたしはできるだけ早く東の対屋たいのやを出た。いなご麿と雨彦は退室してきたけれど、案の定、けら男はそのままだ。本来なら、大姫の客分であるわたしを案内しなければならないのに。


「なっるほど。ロミジュリってか? ――でもあの殿様が、大姫の幸せを反対するかしらん」


 思わず呟くと、いなご麿が後ろでひゅっと口笛を鳴らす。


「おっ、さっすが、斎迩の君。気づいたんだ」


「そらま~、空気が甘々だもん」


「お邸じゅうで、気づいてないのはお殿様だけ」


 ぼそっと言った雨彦に、目が点になる。

 あのパパ殿が気づいていないこと自体は、まったく何も不思議ではない。ただでさえマトモな色恋沙汰に疎いうえに、世のお父さんという生き物は、無意識で娘の恋なんて事態をシャットアウトしているものなのだ。

 でも、それなら。


「誰にも反対されていないなら、大姫様はなぜあんなに悩んでらっしゃるのよ?」


「それが、誰にも分かんね~んだよ。大輔の君も、けら男も」


「けら男も?!」


 ということは、大姫の悩みは恋愛ではない、のだろうか。急にわたしが呼ばれたことと考え合わせると、勉強系?

 だけど女房たちは、恋を仕掛けてくる公達きんだちを、大姫がみごとに撃退していると誉めそやしていた。そもそも和歌の勉強は、そういう場面のためのものだ。わたしの役割も終わっている気がする。

 考え込んだわたしに、雨彦は、


「大姫様を助けてください」


 ぺこりとお辞儀をして、庭仕事に戻って行った。


「わたしにできることなんか、あるのかな……?」


 五年ものブランクがあるし、今の大姫の生活も恋も悩みも見当もつかないのに。


「いや、逆だろ。斎迩の君にしか助けられないと思ったから、殿様も大姫様も、斎迩の君を呼んだんだ」


「いなご麿、なんか情報があるの?」


「……あれかな、って予想はある。でも俺には立ち入れない部分だから想像だし。……たぶん、あの事件に関わってるんだと思う」


 永久元年の鳥羽帝暗殺未遂事件にからんだ、いくつかの殺人と怪異。


「わざわざ斎迩の君に頼るとなると、あれ絡みくらいだろ?」


「そっか。うん、もしあの事件絡みなら、わたしもお手伝いしなきゃね」


 これが最後の訪問ならなおさら、後始末まで責任を持つべきだろう。

 

「んっ、がんばるよ! じゃあ、いなご麿の名前を考えよう!」


「はぁ?! 話が飛ぶなぁ。マジでオバサン化してないか、斎迩の君。本当に三か月しか経ってないのかよ」


「るっさいわね。雨彦の言ったとおりだなって思ったの。これが最後かもしれないから、後顧の憂いなく片付けていきたいじゃない」


 ふいにいなご麿は横を向いて、「……そーゆーこと、言うなよな」と小さく呟いた。泣き出しそうに顔を歪めるいなご麿の頭をなでる。わざと乱暴に、髪の毛をくしゃくしゃにした。


「わたしは嬉しいよ。大姫様と違って、こちとら恋人もいなくて、子どもどころか結婚すら想像もつかないし。自分の教え子の名付け親になるって、教師としては最大の誉れなんだから」


「俺も? 俺も、斎迩の君の教え子なのか?」


 目を見開いて、正面からわたしを見つめてくるいなご麿に、強く頷く。


「そりゃそうだよ。わたしの言ったことがいなご麿の人生設計を左右したみたいだし、責任も感じてる。まさか、忍者になってるとはね」


「ニンザ?」


 怪訝そうに聞かれて、気が付く。

 そう、実は「忍者」という単語はとても新しいのだ。もはや「忍者」が存在しなくなり、物語の中でだけ活躍するようになってから作られた呼び名だ。


 「志能便しのび」という呼び名は古く、聖徳太子の時代からあった。だが、もともと「忍び」は、ある特定の家や組織に仕えて情報を得る影の存在だ。そのため各家で秘密の呼び名があって、総称など必要なかった。

 くさはもちろん、伺見うかみ、蜘蛛、隠忍おに篠蟹ササガニ、キツネなど、すべて忍びを指している。戦国時代に入れば、透波すっぱ黒巾木くろはばき乱波らっぱ軒猿のきざる風魔ふうま、そして幕府の御庭番おにわばんと、各大名がお抱え忍びを育てた。「伊賀」や「甲賀者こうかもの」は、外注される特殊な忍び集団で、自治体全体がブランド化された呼び名だ。


「あっ、えっと、忍びのことよ!」


「へぇ……。どういう字? ――忍ぶ者、か。いいな。俺、それがいい」


「え、名前が忍者? や、なんか変じゃない? てか、すぐに正体バレちゃうでしょ、そんな名前」


「まさかそのまんまじゃねーよ。ニンザの音でさ、適当に漢字考えて」


「えーーー……。忍者っていえばやっぱりハットリかなとか、赤影とか影丸とか猿飛さるとびとか、けっこうわくわくしてたのに……。まぁ、服部半蔵がいるからハットリにはできないんだけど……」


「ほぼ意味わかんねーから、早く字決めてくれる」


「ナルトとかボルトとかどう? かっこよくない?」


「ぜってーヤだ。なんでいきなり俺、渦潮うずしおなんだよ、ボルトってどんな漢字だよ」


「うぅ、分かったよ……。ニンだと、仁かな。で……」


 庭にしゃがみこんで、木の枝で地面に漢字を書いていく。

 仁左、人三、任左……。


「なんか、ピンとこない……」

「めんどくせーなー。だいたい俺に、仁って立派すぎだろ。いちばん簡単な字でいいんだって。っと、じゃあ、人三かな」

「いやいや、それはダメ! うっかり書いちゃったけど、これけっこうひどい意味のことわざの一部だから!」

「お貴族様みたいな徳の高い字より、そっちの方がいいんじゃね? 左も偉すぎだし、俺は三がいいよ」

「でも、仁三だとなんか間が抜けてる感じが……。横棒ばっかりで」

「いーじゃん、横棒。書くのラクだし。そんなこだわんなくても」

「こだわるよ! だっていなご麿のこれからの名前だよ?! いなご麿、って名前より長く付き合うんだよ、いい名前にしたいじゃん!」


 瞬間、いなご麿の顔が真っ赤になった。

 その場に座り込んで頭を抱える。


「あ~もう……。ほんっと、斎迩の君だなぁ」

「え?」

「……俺みたいなヤツのことでも、真剣に心配して考えてくれるってこと」


――いや、当然だよね。


 と思ったけれど、いなご麿が耳まで赤くなっているので、口にはしなかった。


「親と友人と師が、人生の宝なんだって。大僧正が言ってた。俺は、親はいないけど、友はいる。そして、斎迩の君が人生の師になってくれた」


 腕に顔をうずめたまま、いなご麿が続ける。


「――本当に感謝してる。だから……俺には分不相応な望みだけど、斎迩の君、俺に本名を付けてくれないか。家族と主人にしか知られない真名まなを。貴族みたいに。けら男がお殿様から賜ったみたいに。普段は、仮名かなで、「にんざ」で通すから。もともと下男は漢字で名前なんか書かねーし」


 胸がいっぱいになった。

 いなご麿は孤児だ。ボーイズの仲間とわたしでその欠落を少しでも補えたのだとしたら、それだけでわたしは家庭教師になってよかった、と心から思う。


「あ、でも、仁はマジ、勘弁な。そんなご立派な漢字、尻が落ち着かねーよ」


 ぱっと顔をあげたいなご麿は、すっかりいつものヤンチャ坊主に戻っている。


――この盛り上がった感動は、どうすりゃいいのよ!


 と思ったけれど、ここで師弟の涙の感動シーンなんて、わたしにもいなご麿にも似合わない。


「しょーがないなあ。だけど、ニンと読む漢字って意外と少ないのよ。他には、任かな? 任せるってこと」

「おお、いいじゃん。俺、このお邸の諜報活動を任されてるわけだし」


 ふたりであーだこーだ言い合い、いなご麿の名前は、

「任三郎」

 になった。

 どこぞの刑事ドラマの警部さんみたいだが、断じて関係ない。

 いなご麿が「任」の字にこだわったし、四虫ボーイズの三男だから、わたしが「三郎」にしたのだ。


「お殿様にも邸のみんなにも、にんざって付けてもらったって言う。任三郎てのは、俺と斎迩の君だけの名前な!」


 パパ殿や家宰さんには言った方がいいんじゃないかと思ったけれど、いなご麿、改め任三郎があまりに嬉しそうなので、まあいいかと思い直した。

 懐かしい人たちとおやつを食べ、任三郎の本心を訊けて、五年のご無沙汰が縮まった気がした。




 そんなわたしのほんわか気分は、翌日の昼、宿直とのいから戻り仮眠から覚めたパパ殿と大姫と対面して、一気に吹っ飛んだ。

 家宰さんもけら男も同席させず、パパ殿は沈痛な声音でいきなり本題を切り出したのだ。


「大姫に入内じゅだいの意向が来ているのだ」


 入内じゅだい

 一瞬、意味が掴めなかった。入内は、内裏だいりに上がって天皇の后になることだ。

 だけど。


――そんなバカな。あり得ない。




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