家庭教師、脱力する
藤の少のおもてなしが終わり、先師の方から州浜と和歌へのお褒めの文が届いて、東の対屋では、どっと安堵の息が洩れた。
全員、一気に気が緩み、ついでに大姫の「暗記ハイ」も消えかけている。
――もともとああいう状態は、長くは続かないしね。そろそろ、次の勉強方法に移る時期かな。
渡殿(渡り廊下)を、東の対屋に向かっていると、橋の下の地べたに、いなご麿が座っていた。
「一人でぼんやりしてるなんて、めずらしいわね」
「ああ、斎迩の君かぁ」
いなご麿は、とにかくはしっこい。お調子者で、たいてい誰かと一緒にいて、冗談を言ったりいたずらを仕掛けたりしている。
「あー、うん、みんな忙しいんだよ」
心ここにあらず、といった風情だ。いつもは叱られるまでしゃべりまくるのに、どうしたのか。
「あなたがしゃべらないと、心配になるんだけど」
「雨彦と違って、な」
雨彦は庭師になりたくて、八助さんから手ほどきを受けている、と聞いた。今も姿が見えないので、どこかで庭の手入れをしているのだろう。
「はっはーん。寂しいんでしょ、雨彦にかまってもらえなくて」
正反対の2人だが、なぜか気が合うらしく、よく一緒にいたのだ。軽くからかったら、図星だったようで、
「も、元はといえば、斎迩の君が悪いんだからなっ!」
逆ギレされてしまった。
「雨彦はさ、斎迩の君のお供で、内裏に入っただろ。宮中のお庭の美しさに感動したんだと」
それは比較の対象が、間違っている。
このお邸の庭は、大姫の趣味のために、自然豊かな状態のままなのだ。普通の平安貴族の、寝殿造りの庭の在りようからは、ほど遠い。
そうか、それで雨彦は、あんなに楽しそうだったのか。
「最近はさ、ススキだのマツムシだの見かけるたびに、大姫様が歌を暗唱されるんだよ、やってらんねぇって」
大姫の「暗記ハイ」は、いなご麿には耐え難かったようだ。他のボーイズ達も、閉口していたのだろうか。
「けら男には、いい勉強だろ。父親も喜んでるしさ」
へ? と、よく分からない声を出してしまった。
「殿様の家宰様だよ、けら男の父親。アイツだって、そのうちこのお邸の家宰になるんだし、歌のひとつやふたつ、覚えといた方がいいだろ」
ええっ、けら男が、将来の家宰さん?!
本殿の、隙のないぱりっとした家宰と、けら男を頭の中で並べてみる。
たしかにけら男は、下男のわりには身ぎれいだけれど……、いっつも麻の貫頭衣みたいな服だし、想像がつかない。
あ、でも、破天荒な主人に、穏やかかつ毅然と対応して、秩序を保とうとするところは、似ているかもしれない。親子して、苦労人である。
――というか、大姫、家宰の息子を子分にして、昆虫採集させていたのか……。
大姫らしい、と苦笑したら、いなご麿がムッとして、
「笑いごとじゃねぇよ。俺だって、分かってる。姫様より年上の俺らが、もう道を決めなきゃいけないことくらい」
「あ、ごめんね。別に、いなご麿を笑ったわけじゃないよ。……いなご麿、焦っちゃってるんだね」
ぐっと詰まって、いなご麿は悔しそうに押し黙った。
「ひき麿は? どうしてるの?」
「あいつは、相撲師になりたいらしい。どうやったらなれるか全然分からないから、家宰様に相談するって言ってた」
巨体のひき麿なら、力士はぴったりだ。が、力士が個人のお抱えになるのは、もう少し先の武士の時代、鎌倉時代が始まってからである。
それまでの相撲は、神事の捧げものとしての競技はあったが、いわゆるプロの力士って、存在したのだろうか?
でも、いなご麿の焦りはよく分かった。仲間のなかで、自分だけが、進む道が決まっていないのだ。他のみんなは着々と準備や修行を始めているのに。
四虫ボーイズは、大姫を中心に、何でも一緒にやってきた。だからこそ、焦りも大きいのだろう。
――でもね。だからこそ。
なんだかわたしは嬉しくて、むず痒い気持ちになって、手すり越しに、いなご麿の肩をバンバン叩いてしまった。
「ってぇな! 何すんだよっ!」
身軽く飛び上がって、いなご麿が逃げる。
「そうそう、その調子。身軽でお調子者で明るくて、頭と体の動きが速いのが、いなご麿でしょ。焦るのは分かるけど、悩むにしても、あなたらしく! そうじゃないと、間違った道を選んじゃうよ?」
「……斎迩の君も、道を迷ったこと、あるのか?」
「あったりまえじゃない。自慢じゃないけど、迷った末の、家庭教師なんだからね」
この時代の身分社会では、親の職業が自分の将来だ。ほとんどの人は、職業を悩む余地すら、ない。この時代の女性に至っては、「働く」イコール、女房になることで、他の選択肢は、ほぼない。
いなご麿の気持ちが分かる人は、少ないだろう。
身寄りがない下男だから、そして自由に道を選ばせてくれるパパ殿の邸だからこそ、いなご麿は悩めるのだ。
「将来まで、せーので、一緒に決める必要ないでしょ。むしろ、みんなが進む道をじっくり観察してみたら? 自分の好きなこととか、やるべきこととか、見えてくると思うよ」
そのとき、本殿のほうから声がかかった。パパ殿である。
「お、斎迩の君、ちょうど来ていたのか。悪いが、急ぎの話がある。付き合ってくれないか」
それまでとは違う顔つきで考え込み始めたいなご麿に、遅れる旨、大姫への伝言を頼む。
走り出そうとするいなご麿に、声をかけた。
「いなご麿。早くスタートした人が、いつでも速くゴールするわけじゃないよ!」
さて、と、渡殿で踵を返すと、パパ殿が笑っていた。
「いやいや、お見事。斎迩の君、道に迷ったことがあるって、本当かい。家庭教師は、天職だと思うけど」
「……聞いてらしたんですか」
「そんな斎迩の君を見込んで、相談がある。僕も、道に迷っちゃってさ」
「殿様は、17年くらい、迷いっぱなしですよね」
「……斎迩の君、いちおう僕が主人だって、分かってる?」
軽口をたたきながらも、わたしは、予感がしていた。
おそらくパパ殿は、黒幕問題に決着をつけるつもりなのだ。
本殿の居間を通り抜ける。
パパ殿の私室に入るのは、初めてだ。
こぢんまりした(といっても10畳以上はあるが)板張りの室で、御簾も几帳もない。家人達が、四方の板戸も庇も開け放し、無言で去っていった。
徹底的に殺風景な部屋で、密談用かと疑いたくなる。
「ここは僕の笛の練習用の室。琵琶とか琴とかもね」
四方が開いているので、屋外と同じだ。神無月(10月)、現代の暦でいえば11月の風が吹き抜けまくりである。
「僕は、院が、本当に今上を暗殺しようとなさったのか、確認したいんだよ、斎迩の君」
予想どおりとはいえ、一瞬、固まってしまった。
ツッコミどころが多すぎる。
「た、単刀直入ですねぇ」
「だって、寒いじゃない、この室」
いや、それは盗聴防止として、仕方がないし。というか、あなたが連れてきた部屋でしょうが!
「確認って、どうされるおつもりなんです。あ、いえ、いいです、聞きたくないです。そんなこと、わたしに宣言なさらなくて、けっこうです。どうぞ、ご自由になさってください」
「うん、斎迩の君のその冷静なところと、不思議な力とを見込んで、僕に力を貸してほしいんだ」
「いや、人の話を聞いてくださいよ!」
意に介さず、パパ殿は、さらに衝撃発言をかました。
「だって、そのために、斎迩の君は、ウチに家庭教師に来てくれたんだよね?」
――はぁ?!
ンなワケあるかっ。わたしは、大姫の花嫁修業的家庭教師として、雇われたのだ。
言葉にならないわたしにかまわず、パパ殿は続ける。
「ウチの家系には、口伝があってさ。――総領娘が真実困難に陥ったときには、最高の師が現れて、家が救われる、っていうの。秘中の秘だから、絶対に口伝えなんだけどね」
「く、口伝って、それはただの勘違いでは……。少なくとも、わたしのことじゃないですよ」
「いや、祖父さんの曽祖父の……、とにかく5代前の土御門院の総領娘も、その師に習って、後宮に入内して皇后になられたんだよ。
大姫の師のなり手が本当にいなくなったとき、ふと思い出したんだ。連絡の取り方も分からなかったのに、依頼の文を書いてみたら、なぜか届いたみたいだし。実際に来てくれた斎迩の君ときたら、予想を超えた方だし。ああ、口伝は本当だったんだなって、僕も感心したくらい」
土御門院、と呼ばれた人は、1人しか思いつかない。藤原道長だ。その娘、彰子。一条天皇の皇后。『源氏物語』の作者、紫式部の、主人。
たしかに、わたしは、道長の娘、彰子の家庭教師も、したことがある。でも。
――そんな迷惑な口伝、残すなよなーっ!
正直、道長はいけ好かないおっさんだったが、政治家としてはスゴ腕だった。薄々私の特異性に気づきながら素知らぬフリをして、使えると判断したのだろう。子孫にだけ、情報を残したのだ。
ますます、いけ好かない。
「それで、殿様は、院に、どうやって確認されるおつもりなんですか?」
過去のしがらみやら口伝やらは、もういい。もう考えたくない。
強引に話を本題に戻すと、パパ殿の顔がぱっと明るくなった。
「いろいろ考えたんだけど、これ、という手が思いつかなくてさ。斎迩の君、何かいい方法はないかな?」
ーーまさかの丸投げ?! てか、これ、丸投げするよーなことか?!
職業人生初、雇い主の前で、わたしは完全に脱力した。




