家庭教師、男装する
笛の音が聞こえる。
暗闇の中で、目が覚めた。
起きたら、体の上に何枚も袿(着物)がかけてあった。
和笛の音は、高く低く、夜気を滑っていく。
低い音は豊かで包み込むようで、高音は信じられないほど透き通っている。
雅楽は、神を呼ぶための音楽、ということを実感した。焦ってささくれた気持ちが、解けていく。
板戸を開けて、簀子に出ると、四虫ボーイズが庭に控えていた。
「あ、斎迩の君。もう大丈夫ですか。大姫様が心配しておられました」
けら男が言うと、「俺、殿にお知らせしてくる」の言葉と同時に、いなご麿が走っていった。
「元気だな、あいつ……」
雨彦が、ぐったりと呟く。この子は無口だけれど、人前で、疲れた姿を見せるような性格ではない。珍しい。
「ねえ、殿は参内なさったのかしら。知ってる?」
「参内されて、もう帰ってこられています。笛の音が聞こえるでしょ。斎迩の君が気づかれるのを、お待ちでした」
あの笛は、パパ殿だったのか。よく分からないが、かなり巧いのではないか。天上の音楽って、こういう音色のことだと思う。
「そりゃ、そうですよ。殿は、笛の名手としても、有名ですから。権大納言や近衛中将など、公卿の方々がこぞって習いにみえます」
けら男が、自分のことのように、威張った。
「いや、それよりも、あの足の速さだ。噂には聞いていたけれど、馬より速いなんて、ホラ話だと思ってたよ、俺は……」
わたしが倒れてからすぐに、パパ殿は、走って内裏に向かったらしい。
貴族が、走って、参内!
あり得ない。
牛車は遅すぎるし、馬もまどろっこしい、とパパ殿が主張したそうだ。
いちばんすばしっこいいなご麿と、小柄な雨彦を供にして、葛籠もパパ殿が担いで、走ったらしい。
供というより、ひたすら遅れないように走ってついていき、内裏に到着した。息も絶え絶えといった状態の二人を休ませておいて、パパ殿は涼しい顔で、蔵人頭に面会を申し込み、一刻(2時間)程で出てきて、また全力疾走で屋敷に帰って来たそうだ。
「あり得ない。あの速さ、人間じゃない……」
遠い目をしている雨彦の呟きに、パパ殿の明るい声がかぶさる。
「はは、僕は、同僚からは、速足の蔵人と呼ばれているんだよ」
「殿!」
戻ってきたいなご麿も合わせ、全員が平伏する。
わたしも倣うが、なんというか、かなり居たたまれない。起き抜けである。髪もぐしゃぐしゃだし、着物は、どういう状態に見えているのだろう。目ヤニとか付いてないか。
後ろから、大輔の君が、慌てて付いてきていた。
「殿様、せめて斎迩の君の身繕いが済むまで、お待ちくださいませ」
「なに、かまわん。どうせすぐ脱ぐしな」
なんか不穏なこと言ったよ、パパ殿!
「斎迩の君、体調は大丈夫か」
「はい、おかげさまで、もうすっかり」
ウィダーイン○リーのおかげか、何時間か熟睡したせいか、すっかり元気になった。
「そうか、よかった。それではこれから、僕と参内する」
「はい、……って、ええっ?!」
参内って、わたしが内裏に上がるのか? なんで? ってか、そんなこと許されるの?!
「斎迩の君の用意してくれた氷や薬に、今上の周囲の方々が、いたく感心されてな。詳しい話を聞きたいと」
!!
――やっちゃったよ!
そう、こういうことに巻き込まれないように、気を付けてたんじゃなかったのか、わたし!
詳しくも何も、わたしに話せることなんか、何もない。
どうやって氷を作ったのか、聞かれても答えられないし、ウィ○ーインゼリーの作り方なんて知るわけがない。
「いえ、あの、薬は、わたしが作ったものではなくて。というか、作り方は知らないのです、人からもらって……」
自分で言っていて、泣きたくなる。
こんな怪しいコメントが、内裏で通用するだろうか。いや、無理だろう。
「ああ、その辺りは心配しなくてよい。斎迩の君が作ったものではない、遠い異国の貴重な薬だと伝えてある」
「あの、でも、誰からもらったのか、とか……」
「今上を哀れまれた御仏から、仕わされたと言ってある。斎迩の君は不思議な方で、神々の使者だと」
かみのししゃ?!
そんな荒唐無稽な話を信じちゃうか?!
いや、信じる、のかな、この時代だと。
そういうものなのか……?
いまいち常識に自信が持てないわたしが、ちらっとパパ殿の顔を窺うと、ものすごく楽しそうに、いたずらっぽく笑っていた。
あれ、これ、言った本人も信じてないね?
「そういうことにしておいた。ま、斎迩の君が不思議な方なのは、本当だからね」
「は、はあ」
こだわりのない雇い主で、よかったと喜ぶべきなのか。
「ただ、斎迩の君は官位もないし、本来なら宮中に入れない。それに、あなたの身の安全のためにも、男装して、僕の供として参内する」
「分かりました。それでは、わたしとこちらのお邸は、無関係な関係ということで」
妙な薬を持ち込んだ以上、後々まで面倒事が降りかかるかもしれない。最低限の安全策は、必要だ。
そして、パパ殿と大姫も、わたしのことをよく知らない、という設定にしておくべきだろう。
わたしの変装、というか、男装は、大騒ぎだった。
どうやら、えらいイケメンになってしまったらしいのだ。
心配と好奇心でガマンしきれず、寝室から出てきた大姫も加わって、女房達と盛り上がる。
参内するなら、正装でなければならない。さすがに、蔵人の青の袍を着るわけにはいかないので、パパ殿の若い頃の袍を借りた。
髪は、頭上でお団子にして、その上に烏帽子を被った。「お上手に髪の毛をまとめられましたわね」と若狭に驚かれたけれど、わたしの本当の髪は、せいぜいセミロングだ。簡単である。
「ほっほぉ。これはまた、宮中の女房達が色めきそうな、美男子ぶりだな」
着替え終わって、パパ殿の待っている濡れ縁に出た。
「本当に……。これほどご立派な公達姿になられるなんて、驚きました」
いつも冷静な大輔の君までが、なにやらうっすらと頬を染めている。
「こんな公達から求婚されたら、あああ、おんなの夢ですわね!」
「斎迩の君、もう、ずっとその格好でいらしてぇ!」
「うっわ、これ本当に斎迩の君? すげぇ、色男」
「斎迩の君、本当に、とっても素敵よ!」
「……大姫様、こういう男がいいんだ……」
きゃあきゃあきゃあ、と、そりゃもう、皆さん大興奮である。
――いいけどさ。
現代でも、この時代の女房姿でも、そんなに美人とか可愛いとか、言われたことはない。
生まれて初めて男装して、生涯最高の絶賛を浴びてしまった。
乾いた笑いを顔に張り付けたまま、わたしはパパ殿と牛車に乗った。
また走ると言われなくて、よかったよ。




