家庭教師、参内する
清涼殿は、帝の住まいである。
現在そこで、今上の快癒祈祷が行われているらしい。
今上の護持僧である大僧正が、清涼殿から出られないため、わたし達がそちらに向かうように言われた。
パパ殿の上司である蔵人頭と、滝口達が、周囲を取り囲んでいる。案内役と言っていたが、警戒もされているはずだ。パパ殿は呑気な顔だが、わたしはおっかなびっくり、歩いていた。
祈祷場は、香の薫りと煙で、充満していた。一瞬むせそうになって、なんとか堪える。
護摩壇の火も大きく、もうもうと白煙が上がっていた。
香は、秋らしく、菊の薫りである。白檀や伽羅も混じっているようだ。
爽やかな菊の香が肺を満たして、ふわ、と、体が浮いたような感覚がした。
「あ、(慣れたら)、すごくいい匂い……」
「うむ、結構結構」
ふぉっふぉっ、と塩辛声が笑った。
びっくりするほど痩せたお爺さんだった。
60代だろうか、僧形で、立派な緋色の袈裟を身に着けているが、全然偉そうでない。飄々とした雰囲気は、どちらかというと、仙人のイメージだ。
「こちらが上の護持僧であられる、大僧正、行尊殿だ」
護持僧とは、貴人専属の僧侶のことだ。
この時代の僧侶は、医者でもあり、教師でもある。
行尊殿は、帝の家庭教師であり、病気になったら薬を処方し、病平癒の祈祷をし、毎朝の占いもし、呪いや祟りを受けたら呪詛返しの術を行い、精神的な補助をするカウンセラーでもあり、はたまた性教育も施す、という、何でもやります的大活躍な人なのだ。
護摩壇の近くに、御座所が並べられて、わたしとパパ殿が、大僧正と向かい合う。蔵人頭も滝口の何人かも、隣に座った。
蔵人頭が、お互いを紹介する。
といっても、パパ殿と大僧正も顔見知りのようだし、逆に全員と初対面のわたしは、「異国の薬をもたらした者」とだけしか言われなかったけれど。
すぐに、行尊殿が口を切った。
「そなたがもたらした、薬じゃがの」
「あ、はい」
「草木の精が入っておるのではないか」
「えーと、はい、植物の甘い液が、入っています」
ウィダー○ンゼリーの成分表を、必死で思い出す。クエン酸とか葉酸とか。トレハロースって、植物性繊維質だよね。果汁も入ってるし、嘘は言ってない、たぶん。
「草木の汁で、なぜ滋養がつくのだ」
滝口の一人が聞いてくる。眉間に縦ジワがくっきりで、険しいお顔だ。
「いえ、あれはすごい御馳走というわけではなくて、固形物を食べられない時に、食べやすくどろどろにしてあるだけです。あの革袋一つで、白粥2椀分くらいでしょうか。ですから、少し元気になったら、自分の口でいろいろな物を食べた方が、回復は早いです」
「ふむ、道理じゃな。そなたの持ってきた氷と冷たい袋じゃが、よく保つ。あれはどうなっておる」
「あ~、あれは、葛籠が、特別製でして……。氷が溶けにくい仕掛けがあるとか、なんとか」
「速足の蔵人の言うには、御仏から仕わされたとか」
「み、御仏、というかですね……、いえ、まあ、そんなものかも! とにかく、幼い今上が、助かるようにと」
さらに滝口のシワが深くなってきたので、慌てて、話を逸らす。
「あの、氷に塩をかけると、更に冷たくなって、長持ちしますから、そうやって、できるだけ保たせてください」
「そうなのか。では、内裏の氷も、塩をかければよいのか……」
「確かに長持ちしますけれど、塩味になってしまいますよ。内裏の氷室の氷は、皆様が召し上がりますよね。しょっぱい削り氷なんて、美味しくないと思いますが」
「ほお。内裏の氷室の氷を、そなた、存じておるのか」
「う、噂で! もちろん、食べたことはありませんが!
あ、そうだ、竹筒に入っていたお水ですが、少し工夫がしてあるのです。あれが無くなったら、水に、小さじ一杯の砂糖と塩を足して、できれば果汁も入れてください」
「そなた、砂糖も、見たことがあるのだな」
「えぇと、たしか、サトウキビとか黒砂糖は、この時代にもあったはず……。もちろん、甘蔓でもいいですけれど、甘さが足りないので、小さじ3杯くらい入れてください」
冷や汗ものの受け答えだったけれど、少なくとも、嘘はついていない。今上を助けたいという気持ちだけは、信じてもらいたい。そうでないと、こんな苦労をしている意味がない。
と思っていると、行尊殿は、さらりと言った。
「ふむ。そなたの言うとおり、あの薬と水は、滋養が高いようじゃ。上も、お召し上がりやすかったようで、椀に二杯も上がられた。少し、お顔の色も回復された」
「えっ、もう、今上が召し上がられたのですか」
驚いた。さんざん毒見して、いろいろ調べて、献上されるのは、早くとも明朝以降だと思っていた。
というか、成分が何かとか、どこで手に入れたかとか、尋問してからでなくていいのか。わたしが心配することでもないけれど。
「いや、こちらの速足が、絶対に大丈夫だ、とても精がつく、と言って、我らの目の前で、2つ3つ食べて行きおっての」
「ええっ、ちょっ、殿様、何してるんですか!」
「ん~? でも、斎……、そなたが、臣の前で、同じことをしたではないか。考えてみたら、安全を証明するいちばんよい方法だ。実際、よく効いたぞ。内裏と我が邸を往復、全力疾走できたのは、あの薬のおかげだな」
「そうかもしれませんけれど、今上への献上品を横からかっぱらって、3つも食べちゃダメでしょう!」
「お。そうか。うむ、2つにしておくべきだったか」
「そういう問題じゃありませんよ!」
うわっはっはっはっはっ。
行尊殿が、膝を叩いて笑った。体に似合わない、豪快な笑い声だ。蔵人頭も、口に扇を当てている。
「どうじゃな、これでも、滝口は、この者を化生のモノと申すかの」
一人だけ苦虫を噛み潰した表情だった滝口は、いかにもしぶしぶ、頷いた。わたしをじろじろ見ながら、
「少なくとも、害意はないようですね」
「うむ。真に化生のモノなら、この護摩の火と、菊の香に耐えられぬ。魔を祓うからの。この者は、いい香りと言いおったぞぃ」
うわあ、むせなくてよかった。我慢してよかった、わたし。
さすが、帝の護持僧。入った瞬間から、試されていたのね。
って、わたしは別に物の怪じゃないけどさ、あの煙には普通の人でも、むせると思うんだけど。危うく冤罪じゃないか。
「拙僧は若き頃、野山に修験しておっての。確かに見たこともない薬じゃが、草木のにおいも感じた。もちろん、拙僧も食べてみたぞぃ。連日の祈祷の疲れも、少し癒えたようじゃ」
「大僧正まで、食されたのですか?!」
「当然じゃ。今上に差し上げる前に、拙僧が確かめんでどうする。滝口も食してみるとよい。美味じゃぞ」
「なんと無茶な……。大僧正にまで何かありましたら、どなたが今上を護持なさるのです。ご自重くださいませ」
まだ納得のいっていなさそうな滝口を、蔵人頭が宥めている。
でも、個人的には、滝口クンに一票だよ。
天皇暗殺未遂だよ? そんな時に、見たこともない薬を献上されて、なぜそんなさらっと口に入れちゃうのか。持ってきた人間を疑うのは、ある意味、当然だと思う。
わたしが一人、うんうんと頷いていると、行尊殿が、
「どうしたのかな」
と聞いてきたので、つい正直に、
「皆様、なぜ、それほどすぐにご信用いただいたのでしょう。わたし自身も、疑われても仕方がないと思っていました。滝口殿の方が、理があるように思いますけれど」
滝口クンは、目をぱちぱちさせていたが、蔵人頭は、あっさり言った。
「それは我らが、速足の蔵人なる人物を、知っているからだ。この者、体力と笛くらいしか取り柄がないが、今上への忠誠心には、一点の曇りもない」
行尊殿も、にこにこしながら、
「拙僧も速足も、先帝の代からお仕えしておるでの。よう、知っておる。こやつが嘘をつけんことも、よーく、な」
うーん、パパ殿、微妙にディスられつつも、信用はされてるんだね。上司や周りの人に理解されていて、喜ばしいことである。出世は遠そうだけど。
「そんな速足が、今上をお助けするために、と、走って持参してきた薬じゃ。しかも、我らの目の前で、自ら口にして、御仏からの授かり物と言う。だからの、薬そのものは、それほど心配しておらんかった。問題は、薬をもたらした者が、この速足を利用して、悪しき企てをしていないか、ということよ」
「行尊殿、斎……、この者は、そのような考えは、決して……」
慌てて割って入るパパ殿を、手で制して、行尊殿は、莞爾と笑った。
「話してみて、この者も、上の快癒を望んでいると、分かった。だからこそ、御仏が薬を仕わされたのではないか?」
うーん、どうしても、そこに落ち着くのか。
わたしは神の使いに、なるしかないらしい。
大僧正の笑顔は穏やかなのに、眼力は強烈だ。無言の圧力に負けて、わたしは平伏した。
「はい。きっと、そうだったのでしょう」
自分では、神の使いとか、言いたくない。
でも、大僧正は容赦してくれなかった。
「御仏は、どのようなお姿だったのかのぅ」
えっ、知らないよ、そんなこと!
「お、畏れ多くて、しかとお顔を眺めたわけではありませんから」
「じゃが、御手に何か持っていらっしゃったじゃろ」
ほとんど誘導尋問である。でも、おかげで、天啓のように、ある仏像が記憶に閃いた。
「丸い、薬壺をお持ちでした。きっと、あのお薬を賜ったのでしょう」
「やはり! 薬師如来様が、上をご守護なさっておるのじゃ!」
得たり! と、行尊殿は言った。
行尊殿の顔を見ていると、わたしのことを、本当に薬師如来の使いと思っているとは、とても思えない。
神仏を本当に信心している時代、のはず、だよねぇ?
この大僧正が特殊なのか、政治の中枢にいる人達は、今も昔も、宗教を口実に使うものなのか。
わたしには判断できないけれど、
「先帝は、末代の賢王と称えられた。今上は、幼いながら、父君の幻影とご自分を比べておられる。御仏のご加護があると知れ渡れば、自信にもなろう」
行尊殿の言葉には、幼い帝への心配と愛情があった。




