学年一可愛い令嬢三姉妹は、自分たちのことになると案外容赦がない
翌日の昼休み、俺は購買で買ったパンを片手に、中庭へ出るつもりで一階の渡り廊下を歩いていた。
空は薄く晴れていて、昼の光が校舎の白い壁を少しだけ眩しく見せている。風はそこまで強くない。部活の掛け声が遠くから聞こえてきて、グラウンドの土の匂いがわずかに流れ込んでくる。どこにでもある高校の昼休みの景色だった。
だからこそ、その中に妙な緊張が混ざっているのが余計に目立った。
渡り廊下の先、二年の特別教室棟へ続く曲がり角のあたりに、人が少しだけ溜まっていた。立ち止まるほどではないが、みんな足を緩めて、ちらちらとそちらを見ている。あれは、見てはいけないものほど見たくなる時の空気だ。
嫌な予感がした。
近づくと、その中心にいたのは黒瀬だった。
その向かいに立っているのは、龍華と優里。姉二人が並んでいる。どちらも制服姿のままなのに、空気の張り方が違った。同じ二年生で、同じ西園寺の娘で、同じように人目を引くはずなのに、龍華は鋭さで、優里は静けさで場を支配している。
黒瀬はその前で、いかにも感じのいい笑みを浮かべていた。
それが昨日よりさらに気に食わなかった。
「……なにしてんだ」
思わず小さく呟く。
まだ距離はある。けれど、その瞬間に優里がこちらへ気づいた。ほんの一瞬だけ目が合う。だが、助けを求めるような色はなかった。ただ、来たんですね、とでも言うみたいに静かな目だった。
黒瀬が何か言っていた。
聞き取れたのは、「神谷くんもそんなこと言ってなかったし」という一節だけだった。
勝手に俺の名前を使っている。
やっぱりそうきたか、と思った。
けれど、俺が前へ出るより先に、優里が一歩だけ前へ出た。
「神谷くんは、そんなこと言っていません」
声は大きくない。
それでも、不思議なくらいはっきり聞こえた。
渡り廊下の空気が少しだけ止まる。
黒瀬の笑みが、ほんのわずかに揺れた。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味でも同じです」
優里は言葉を被せるように続けた。
「私たちに近づくために、神谷くんの名前を使うのはやめてください。迷惑です」
きっぱりしていた。
やわらかい口調なのに、逃げ道がない。
黒瀬はそこで初めて、本当に困った顔をした。
優里はいつも穏やかで、角の立つことを言わない印象がある。たぶん黒瀬も、そこへ勝手に甘えていたんだろう。だからこそ、その口から迷惑だと断言されたのが効いた。
さらに、その横から龍華が口を開く。
「ついでに言っとくけど、私も同じだ」
低い声だった。
それだけで周囲の空気がもう一段冷える。
「神谷に勝手に話を通したみたいな顔すんな。昨日も今日も、そんな話は一つもしてない」
龍華はそこで一度だけ黒瀬を見た。
「次、同じことしたら私が直接潰す」
物騒だな、と思ったが、たぶん周りも同じことを思ったらしい。
ざわ、と人の気配が揺れた。
さすがに黒瀬も、そのまま笑ってはいられなかった。
顔を立て直そうとしているのは分かる。だが、遅い。もう十分に人目を集めている。二年の廊下の真ん中で、西園寺姉二人に揃って線を引かれた。その事実だけで、今日この場はもう終わっていた。
「……そこまで言う?」
黒瀬がようやく絞り出した。
優里は小さく首を傾げる。
「はい。むしろ、ちゃんと言わないと伝わらないと思ったので」
やっぱり静かで、やっぱり容赦がなかった。
そのやり取りを少し離れた場所から見ていた俺は、妙な感覚になっていた。
助けに入る必要はなかった。俺が前に出るまでもなく、二人は自分たちの言葉で、きっちり線を引いていた。
そこでようやく、俺は少し肩の力を抜いた。
が、それで終わるほど黒瀬も素直じゃなかった。
廊下の空気が散り始めたところで、黒瀬は視線だけをこちらへ向けてきた。
表情は抑えている。けれど、その目の奥にある苛立ちは隠れていない。
嫌な感じだった。
五時間目と六時間目の間、教室にいても集中しきれなかった理由は、それだけで十分だったのかもしれない。
放課後、俺はバイトの日ではなかった。
だから本来なら、そのまま適当に本屋へ寄って帰るつもりだった。けれど、昇降口を出たところで、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、見覚えのある一年男子が立っている。
隣のクラスのやつだ。名前は確か、真壁。
「神谷、ちょっといい?」
言い方は普通だった。
それでも、妙な緊張が混じっているのは分かる。
「……なんだよ」
「さっき、二年の人がさ。神谷に渡しといてって」
そう言って、小さく折った紙を渡してくる。
受け取る前から嫌な予感しかしない。
「誰」
「黒瀬さん」
やっぱりか。
紙を開く。
短い文だった。
『話の続き。駅裏の駐輪場』
シンプルで、だからこそ露骨だった。
「受け取ったって言っといて」
俺がそう言うと、真壁は少しだけ気まずそうに頷いた。
たぶん、頼まれたこいつもこいつで面倒だったんだろう。断れない相手に使われるのは、何も俺だけじゃないらしい。
駅裏の駐輪場。
人目が少なくて、でも完全に無人ではない場所をわざわざ選ぶあたりが、黒瀬らしい。表立って騒ぎにしたくないが、圧はかけたい。そういう中途半端な器用さだ。
無視する選択肢もあった。
だが、今日の昼休みで姉二人にはっきり断られたあとだ。そこでまだ来るなら、ここで終わらせた方がいい。
俺は一度だけスマホを見た。
ちょうど涼花から『今日どうするー?』とメッセージが来ていたが、返信は後にした。
駅裏の駐輪場は、放課後の時間帯だと少し薄暗い。
駅前の喧騒から一本外れるだけで、急に音が遠くなる。自転車の金属の匂いと、アスファルトにこもった熱気が混ざっていて、空気が少しだけ重い。
黒瀬はすでにいた。
取り巻きも二人、昨日と同じだ。
「来ると思った」
黒瀬が壁にもたれたまま言う。
昨日までの余裕めいた軽さは、もうだいぶ薄れていた。
「一応、聞きますけど」
俺は少し距離を取ったまま立つ。
「何の話ですか」
「昼の件」
「見てたと思いますけど、もう終わってます」
「終わってねぇよ」
後ろの一人が吐き捨てる。
黒瀬はそれを手で制し、俺だけを見た。
「お前のせいで、余計ややこしくなった」
「逆です」
「は?」
「俺が最初から断ってるのに、人の名前使って近づこうとするからややこしくなったんです」
淡々と言う。
その方が、こういう相手には響くことがある。
黒瀬は舌打ちこそしなかったが、明らかに顔をしかめた。
「お前さ、ほんと感じ悪いな」
「何度も言わせないでください。紹介しません。名前も使わないでください。これ以上絡むなら迷惑です」
「迷惑迷惑って、お前自分が正しいと思ってんの?」
「少なくとも、間違ってるとは思ってないです」
その瞬間、取り巻きの一人が前へ出た。
昨日よりだいぶ早い。苛立ちの方が先に来ているらしい。
「先輩ナメてんのかよ」
肩を掴みにくる。
雑だ。
俺はその手首を外し、ついでに肘を軽く流した。相手の体勢が崩れる。そこへ足を引っかけると、男は無様に自転車の列へぶつかりかけて、慌てて手をついた。
「っ、てめ」
「やめとけって」
黒瀬が言う。
だが、その言い方に本気で止める気は薄い。
もう一人も前へ出た。
今度は胸元を狙って掴みにくる。これも同じだ。真正面から来るなら、正面にはいない。半歩ずれて手首を切り、肩の向きを変える。相手はその勢いのまま前へ流れ、バランスを崩したところを俺は背中側から押さえた。
強くはやっていない。
でも、これで十分だった。
「次、やめてください」
低く言うと、押さえられた相手が歯を食いしばる。
黒瀬の目の色が変わった。
昨日も今日も、たぶん向こうは“少し脅せば折れる一年”くらいに思っていたんだろう。そこへ予想外の反応が返ってくると、手合いによっては急に冷える。
けれど黒瀬は、冷えるより先に意地が立ったらしい。
「お前、調子乗んなよ」
そう言って踏み込んでくる。
拳までは来ない。
その代わり、強く押しのけるつもりの肩だった。
俺は押さえていた相手を離し、そのまま黒瀬の進路を外す。勢いのついた肩が空を切る。流れた体が前へ出たところで、背中側へ軽く手を添えて、重心をずらす。それだけで、黒瀬は自分でも驚いた顔のまま片膝をついた。
数秒、誰も動かなかった。
自転車の並ぶ駐輪場に、金属のきしむ音だけが残る。
俺は手を出さない。出す必要がないからだ。
「……まだやりますか」
黒瀬は顔を上げた。
その目には怒りもあったが、それ以上に、どう対処すればいいか分からない戸惑いが混じっていた。
そこで、背後から別の声が飛んできた。
「神谷くん!」
涼花だった。
しまった、と思った時には、すでに優里と龍華の姿まで見えていた。
三人そろって、駐輪場の入口に立っている。
涼花は息を切らしている。走ってきたんだろう。
優里の顔は静かだが、目だけが鋭かった。龍華は最初から機嫌が悪い顔を隠していない。
「……なんで来た」
思わず出たのはそんな言葉だった。
「連絡ないから変だと思ったの!」
涼花が答える。
「駅の方って聞いて、嫌な予感して!」
やっぱり。
返信を後回しにしたのがまずかったらしい。
優里はその場の空気を一目で読み取ったみたいに、黒瀬たちと俺を順に見た。
そして、何も迷わず言う。
「黒瀬さん」
その声で、黒瀬が顔を上げる。
「もうやめてください」
「……別に何もしてないけど」
「してます」
優里は一歩だけ前へ出た。
「神谷くんに勝手な話を押しつけて、断られて、それでもまだつきまとっている。それを何もしていないとは言いません」
龍華も続く。
「昼で分かれよ。こっちは最初からその気ないって言ってる」
涼花は俺の横まで来ると、少しだけ睨むみたいに黒瀬を見た。
「神谷くんのこと、これ以上巻き込まないで」
それぞれ言い方は違うのに、向いている方向が同じだ。
そのことが、たぶん黒瀬にも伝わったんだろう。
黒瀬は立ち上がったが、もう最初の形は保てていなかった。
周りにはいつの間にか何人かが足を止めている。完全に面倒な空気だ。
「……もういい」
最後にそう吐き捨てるのが精一杯だったらしい。
取り巻きを引き連れて去っていく背中を見送りながら、俺はようやく小さく息をついた。
すると次の瞬間、龍華が俺の肩を軽く叩いた。
「一人で来るな」
「いや、お前らまで来るとは思わないだろ」
「思え」
「無茶言うな」
優里は俺の腕や肩を軽く見て、怪我がないことを確認しているらしい。
涼花は涼花で、さっきまでの勢いのまま怒っているのか、まだ少し頬が熱を持っている。
「神谷くん、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「ならいいけど……」
いいけど、のあとに色々言いたいことが残っている顔だ。
そのまま四人で駅前のファミレスへ入ったのは、さすがに今日は部屋よりこっちの方がよかったからだろう。
まだ外の空気が少し張っていて、六畳一間へ戻ると逆に息が詰まりそうだった。
窓際の席に案内され、水の入ったグラスが置かれる。
制服のままの高校生四人組が、なんとも言えない疲れた顔で座っているのは、たぶん他の客から見ても妙な光景だったと思う。
けれど、その妙さに慣れ始めている自分もいた。
「それで」
ドリンクバーから戻った龍華が、最初に口を開いた。
「なんで連絡返さない」
「すみませんでした」
そこは素直に謝った方が早い。
実際、返信を後回しにしたせいで三人を無駄に走らせたのは事実だ。
優里はストローを持つ手を止めて、少しだけ安心したように息をついた。
「今日のは、さすがに心配しました」
「……悪い」
「しかも、また一人で行くし」
涼花が不満そうに言う。
「なんでそういう時だけ抱え込むの!」
「抱え込むってほどじゃ」
「ほどです」
優里に即座に切られた。
言い返せない。
今日は完全にこっちが悪い。
龍華はジュースを一口飲んでから、俺を見る。
「でも、まあ」
「なんだ」
「ちゃんとボコられてないだけ偉い」
「評価の基準がおかしいな」
「お前ならやろうと思えばもっとやれたろ」
「やらないよ」
「そこは信用してる」
龍華のその言い方は、少しだけまっすぐだった。
涼花も頷く。
「うん。神谷くん、ちゃんと止めるもんね」
「そう見えてたか」
「見えてたよ。むしろ、我慢してる感じだった」
それは、自分でも少し自覚がある。
腹は立っていた。けれど、そこで殴って終わらせるのは違う。あくまで向こうが勝手に絡んできて、勝手に崩れただけ。その形から動く気はなかった。
優里はそんな俺を見て、静かに言う。
「今日、少し嬉しかったです」
「何が」
「神谷くんが、私たちの前へ出たことじゃなくて」
優里はそこで言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。
「私たちが言う前に、ちゃんと自分の言葉で『それは違う』って言ったことです」
「……」
「神谷くん、自分のこととなると、たまに一歩引こうとしますから」
図星だった。
「今日は、ちゃんと怒ってましたよね」
「まあ……少し」
「少しどころじゃなかったよ」
涼花がすぐに乗る。
「結構怖かった!」
「お前、それ前も言ってなかったか」
「でも今回は、わたしたちのことで怒ってくれた感じがした」
そこまで言われると、少し困る。
龍華はメニューを閉じながら、ふっと笑った。
「黒瀬にとっては一番効いただろうな」
「何が」
「お前がキレたこと」
「キレてない」
「キレてた」
「キレてました」
「キレてたね」
三方向から同時に言われた。
そこまで揃うと、もう否定しづらい。
ファミレスの明るい照明の下で、俺はグラスの水を一口飲んだ。
冷たい。少しだけ、頭も冷える。
黒瀬の件は、たぶんこれで終わる。
少なくとも、今日みたいな形でまた来ることはないだろう。もし来るなら、あいつ自身がもっと格好悪くなるだけだ。そこまで馬鹿じゃないと信じたい。
「で」
涼花が、さっきまでの緊張を少しだけ崩して言う。
「今日は、反省会っていうか……なんていうの?」
「終戦会議」
龍華が即答した。
「言い方が物騒すぎる」
「でも合ってるよね」
涼花が妙に納得している。
優里は少しだけ笑って、ストローをくるりと回した。
「では、今日はお疲れさま会にしましょうか」
「それが一番丸いな」
俺がそう言うと、三人が少しだけ嬉しそうな顔をした。
たぶん、今日はみんな疲れたんだと思う。
面倒なことが起きて、余計な怒りもあって、それでも最後は同じ席についている。
そういう日は、難しいことを考えずに少し甘いものでも食べて終わればいい。
「神谷くん」
涼花がメニューを開きながら、ちらっとこっちを見る。
「今日は、ちょっとだけ頼りすぎてもいい?」
「何をだよ」
「デザート選ぶの」
「そこかよ」
「大事だよ!」
その勢いに、思わず少しだけ笑った。
どうやら今日は、俺の部屋じゃなくてファミレスで三姉妹に振り回される日らしい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




