第3話 見ている者
カイエル・ルーヴェンは、王宮の執務室の隅で書類を眺めながら、静かに状況を観察していた。
第一王子アルベルトと、聖女エミリア。そして――リリアーナ・エヴァレット。
最近、王宮の空気は目に見えて変わりつつある。
(……いや、正確には「軽くなっている」か)
それは、良い変化とは限らない。
「兄上は、随分と楽しそうだな」
独り言のように呟くと、近侍が苦笑した。
「聖女様のおかげでしょう。場が和みますから」
「和む、ね」
カイエルはそれ以上言わなかった。場が和むことと、物事が進むことは、別だ。彼はそれを、嫌というほど知っている。
視線を上げると、少し離れた場所にリリアーナの姿があった。背筋を伸ばし、誰とも群れず、必要なときだけ動く。
――静かだが、正確。
彼女がいるだけで、場の流れが整っているのがわかる。
(あれを“冷たい”と評するのは、楽な方だ)
感情を抑え、無駄を省く。それができない人間ほど、そう言いたがる。
「第二王子殿下」
声をかけられ、カイエルは顔を上げた。文官の一人が、困ったように書類を差し出す。
「こちらの承認ですが……最近、処理が滞りがちで」
「……リリアーナ嬢は?」
「聖女様の件で、お忙しいようで……」
その言葉で、カイエルはすべてを理解した。
(切り離され始めている)
無自覚で。誰も、悪いことをしているつもりもなく。ただ、“雰囲気”が彼女を不要なものとして扱い始めている。
――愚かだ。
カイエルは内心でそう断じた。王宮という場所は、感情で回るほど甘くない。笑顔と善意だけでは、書類も外交も進まない。
ふと、リリアーナと目が合う。一瞬。ほんの一瞬だけ。だが、その視線には焦りも、動揺もなかった。
(……気づいているな)
自分が外されつつあることを。それでも、騒がず、抗わず、ただ状況を見ている。
――厄介な女だ。
同時に、手放してはいけない存在でもある。カイエルは小さく息を吐き、書類を閉じた。
(このまま彼女を切れば、兄上は後悔する)
それは予言ではない。単なる、計算だ。王宮は、人材を感情で扱った瞬間に崩れ始める。
そして、その時――後悔するのは、切った側だ。カイエルは再びリリアーナを見る。
彼女は何事もなかったかのように、淡々と職務を続けていた。
まるで、自分がいなくなる未来すら、すでに計算に入れているかのように。
(……覚えておこう)
この女が、何を選ぶのかを。
カイエルはリリアーナを助けません。この時点では、助ける理由がないからです。彼が見ているのは人ではなく、王宮という仕組みが人材を感情で扱い始めた、という事実のほうです。
書いていて難しかったのは、彼を「気づいている優しい人」にしないことでした。気づいているだけの人は、まだ何もしていません。
次回、彼女の机の上で、書類が二つの束に分かれます。
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