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婚約破棄された悪役令嬢ですが、仕事を奪った王宮が先に崩れました  作者: 水城ルナ


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120/121

第120話 予定のない日

 書簡が、来なくなった。最初に気づいたのは、夏の初めだった。三日続けて何も届かず、四日目に一通だけ来た。開くと、公爵家からの季節の便りだった。用件はない。


 次の週は、二通。その次は、一通。リリアーナは、それを異常だと思わなかった。手順書は各地に回っている。分けたあとで止まる都市は減り、止まっても自分たちで解けるようになっている。彼女に問い合わせる理由が、消えていく。


 (順当だ)


 そう思った。実際、そう設計した。異端指定については、その後、何の音沙汰もない。取り消されてもいないし、執行もされない。ルシアの言うところの、保留のままだ。中央神殿は、それについて何も言わなくなった。


 合同評議は、予定通り発足した。彼女の席は、空席のまま置かれている。


 夏の半ば、彼女は、初めて予定のない日を迎えた。


 朝、いつも通りに起きた。窓を開けて、湯を沸かした。書簡を確かめようとして、確かめるものがないことに気づいた。


 机の上には、白紙が一枚あるだけだ。


 (……何を、しよう)


 立ったまま、彼女はしばらく動かなかった。やるべきことは、頭の中で数えれば十以上ある。家の修繕。冬に向けた薪の手配。公爵家への返書。どれも、半日あれば片づく。


 片づけたあと、また同じ日が来る。彼女は、椅子に座った。座って、天井を見た。梁の木目は、この春に一度数えている。


 王宮にいた頃、予定のない日を欲しいと思ったことがある。十年で、たしか二度ほど。あのときの自分に、これを見せてやりたいと思った。


 欲しかったものは、来てみると、ただ空白だった。


 昼を過ぎて、彼女は街へ出た。


 特に用はない。用がないまま歩いたのは、記憶にある限り初めてだった。市場を通り、橋を渡り、川沿いをしばらく行った。子どもが石を投げていた。老人が犬を連れていた。荷車が二台すれ違うのに、道が狭くて、御者同士が短く言い合っていた。


 彼女は、それを見ていた。


 (あれは、どちらが先に譲るべきか)


 考えかけて、やめた。考えても、彼女には関係がない。二台はそのうち、どちらかが下がって、通っていった。誰も彼女に聞かなかった。


 橋のたもとで、魚を売る女に呼び止められた。


「奥さん、今日は何にします」


「……いえ、今日は」


「買わないの」


「買いに来たわけでは、ないのです」


 女は、不思議そうな顔をした。


「じゃあ、何しに」


 リリアーナは、答えを探した。探して、見つからなかった。


「……分かりません」


「はあ」


 女は、それ以上聞かなかった。聞かずに、店先の魚を並べ直しはじめた。


 少しして、思い出したように言った。


「まあ、そういう日もありますよ」


 彼女は、その一言を、なぜか長く覚えていた。


 帰り道で、家主の女とすれ違った。


「あら。今日は、お出かけ」


「……歩いていました」


「歩くだけ?」


「はい」


「珍しいね。あんたが手ぶらで歩いてるの、初めて見たよ」


 女は、面白そうにそう言った。


「決まったのかい。この前の」


「決めました」


「そう。どっちに」


「断りました」


「ふうん」


 女は、それについて何も言わなかった。良かったとも、惜しいとも言わない。


「聞かないのですか」


「何を」


「なぜ断ったのか、とか」


「聞いてほしいの?」


「……いえ」


「じゃあ、聞かない」


 彼女は、荷を持ち直した。


「あたしはね、決めた人に理由を聞かないことにしてるの。聞かれると、決めた人は説明を作るから」


「作る、とは」


「本当はもっと、ぐちゃぐちゃした理由だったのを、他人に分かるように削るんだよ。削ったほうが立派に聞こえるからね」


「……ええ」


「そうすると、そのうち、削ったほうが本当だったことになる」


「それで、これからどうするの」


「……分かりません」


「また、それ」


 彼女は、笑った。


「まあ、いいさ。うちの店賃さえ入れば、あたしは文句ないよ」


「ご心配なく」


「心配してないよ」


「では、なぜ聞かれたのですか」


「これから、を?」


「はい」


「聞きたかったから」


 女は、あっさり言った。


「理由は聞かない。これから、は聞く。そっちは、削りようがないからね」


「……削りようが」


「まだ何もしてないんだから、飾れないでしょ」


 彼女は、手を振って行ってしまった。


 夕方、家に戻った。扉を開けると、部屋は朝のままだった。何も届いておらず、何も動いていない。


 彼女は、白紙の前に座った。中央に、一行だけ書いてある。春の終わりに書いたきり、直していない。字は、やはり整っていない。


 あの一行を書いたとき、彼女は、それを口に出す機会が来るとは思っていなかった。書けば済むと思っていた。書いたものは、たいてい誰かに渡す。渡さない紙は、これが初めてだ。


 (渡す相手が)


 彼女は、そこまで考えて、手を止めた。渡す相手は、一人しかいない。その人は、案件がなくても来ると言った。三度来た。最後に来たのは、春の終わりだ。それから、二月近くになる。


 急がせるつもりはない、と言われた。


 (……ええ)


 彼女は、白紙を折らずに、机の上に置いたままにした。灯りを点けようとして、まだ明るいことに気づき、やめた。


 窓の外で、夏の光が、床に長い影を落としている。三年前、王宮の廊下で、彼女は同じ影を見た。あのとき、影は去っていく背中を照らしていた。去年の春、この部屋で、影は留まる床に伸びていた。


 今日の影は、どちらでもない。ただ、そこにある。


 その時、扉が叩かれた。規則正しい、迷いのない叩き方だった。

床に長い影、というのは第1話から使っている形です。

去っていく背中を照らした影、留まる床に伸びた影、そして今回の、ただそこにある影。三度目で、ようやく置き場所が決まりました。


次回、扉を叩いたのが誰なのか。第二部の最終話です。

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