第120話 予定のない日
書簡が、来なくなった。最初に気づいたのは、夏の初めだった。三日続けて何も届かず、四日目に一通だけ来た。開くと、公爵家からの季節の便りだった。用件はない。
次の週は、二通。その次は、一通。リリアーナは、それを異常だと思わなかった。手順書は各地に回っている。分けたあとで止まる都市は減り、止まっても自分たちで解けるようになっている。彼女に問い合わせる理由が、消えていく。
(順当だ)
そう思った。実際、そう設計した。異端指定については、その後、何の音沙汰もない。取り消されてもいないし、執行もされない。ルシアの言うところの、保留のままだ。中央神殿は、それについて何も言わなくなった。
合同評議は、予定通り発足した。彼女の席は、空席のまま置かれている。
夏の半ば、彼女は、初めて予定のない日を迎えた。
朝、いつも通りに起きた。窓を開けて、湯を沸かした。書簡を確かめようとして、確かめるものがないことに気づいた。
机の上には、白紙が一枚あるだけだ。
(……何を、しよう)
立ったまま、彼女はしばらく動かなかった。やるべきことは、頭の中で数えれば十以上ある。家の修繕。冬に向けた薪の手配。公爵家への返書。どれも、半日あれば片づく。
片づけたあと、また同じ日が来る。彼女は、椅子に座った。座って、天井を見た。梁の木目は、この春に一度数えている。
王宮にいた頃、予定のない日を欲しいと思ったことがある。十年で、たしか二度ほど。あのときの自分に、これを見せてやりたいと思った。
欲しかったものは、来てみると、ただ空白だった。
昼を過ぎて、彼女は街へ出た。
特に用はない。用がないまま歩いたのは、記憶にある限り初めてだった。市場を通り、橋を渡り、川沿いをしばらく行った。子どもが石を投げていた。老人が犬を連れていた。荷車が二台すれ違うのに、道が狭くて、御者同士が短く言い合っていた。
彼女は、それを見ていた。
(あれは、どちらが先に譲るべきか)
考えかけて、やめた。考えても、彼女には関係がない。二台はそのうち、どちらかが下がって、通っていった。誰も彼女に聞かなかった。
橋のたもとで、魚を売る女に呼び止められた。
「奥さん、今日は何にします」
「……いえ、今日は」
「買わないの」
「買いに来たわけでは、ないのです」
女は、不思議そうな顔をした。
「じゃあ、何しに」
リリアーナは、答えを探した。探して、見つからなかった。
「……分かりません」
「はあ」
女は、それ以上聞かなかった。聞かずに、店先の魚を並べ直しはじめた。
少しして、思い出したように言った。
「まあ、そういう日もありますよ」
彼女は、その一言を、なぜか長く覚えていた。
帰り道で、家主の女とすれ違った。
「あら。今日は、お出かけ」
「……歩いていました」
「歩くだけ?」
「はい」
「珍しいね。あんたが手ぶらで歩いてるの、初めて見たよ」
女は、面白そうにそう言った。
「決まったのかい。この前の」
「決めました」
「そう。どっちに」
「断りました」
「ふうん」
女は、それについて何も言わなかった。良かったとも、惜しいとも言わない。
「聞かないのですか」
「何を」
「なぜ断ったのか、とか」
「聞いてほしいの?」
「……いえ」
「じゃあ、聞かない」
彼女は、荷を持ち直した。
「あたしはね、決めた人に理由を聞かないことにしてるの。聞かれると、決めた人は説明を作るから」
「作る、とは」
「本当はもっと、ぐちゃぐちゃした理由だったのを、他人に分かるように削るんだよ。削ったほうが立派に聞こえるからね」
「……ええ」
「そうすると、そのうち、削ったほうが本当だったことになる」
「それで、これからどうするの」
「……分かりません」
「また、それ」
彼女は、笑った。
「まあ、いいさ。うちの店賃さえ入れば、あたしは文句ないよ」
「ご心配なく」
「心配してないよ」
「では、なぜ聞かれたのですか」
「これから、を?」
「はい」
「聞きたかったから」
女は、あっさり言った。
「理由は聞かない。これから、は聞く。そっちは、削りようがないからね」
「……削りようが」
「まだ何もしてないんだから、飾れないでしょ」
彼女は、手を振って行ってしまった。
夕方、家に戻った。扉を開けると、部屋は朝のままだった。何も届いておらず、何も動いていない。
彼女は、白紙の前に座った。中央に、一行だけ書いてある。春の終わりに書いたきり、直していない。字は、やはり整っていない。
あの一行を書いたとき、彼女は、それを口に出す機会が来るとは思っていなかった。書けば済むと思っていた。書いたものは、たいてい誰かに渡す。渡さない紙は、これが初めてだ。
(渡す相手が)
彼女は、そこまで考えて、手を止めた。渡す相手は、一人しかいない。その人は、案件がなくても来ると言った。三度来た。最後に来たのは、春の終わりだ。それから、二月近くになる。
急がせるつもりはない、と言われた。
(……ええ)
彼女は、白紙を折らずに、机の上に置いたままにした。灯りを点けようとして、まだ明るいことに気づき、やめた。
窓の外で、夏の光が、床に長い影を落としている。三年前、王宮の廊下で、彼女は同じ影を見た。あのとき、影は去っていく背中を照らしていた。去年の春、この部屋で、影は留まる床に伸びていた。
今日の影は、どちらでもない。ただ、そこにある。
その時、扉が叩かれた。規則正しい、迷いのない叩き方だった。
床に長い影、というのは第1話から使っている形です。
去っていく背中を照らした影、留まる床に伸びた影、そして今回の、ただそこにある影。三度目で、ようやく置き場所が決まりました。
次回、扉を叩いたのが誰なのか。第二部の最終話です。




