第121話 今度の答え
カイエル・ルーヴェンは、何も持っていなかった。供も連れていない。飾りもない。前の三度と、まったく同じだった。
「久しぶりだな」
「二月ぶりです」
「数えていたのか」
「……ええ」
彼女はそう答えた。誤魔化す理由が、この日は思いつかなかった。カイエルは、部屋の中ほどまで来て、机の上に目を留めた。白紙が一枚、置いてある。中央に、何か書いてある。
彼は、それを読まなかった。読まずに、椅子に座った。
「湯を出しましょうか」
「いらない」
「では、私が飲みます」
リリアーナは湯を沸かした。段取りはもう組み立てなかった。二人はしばらく黙って座っていた。窓の外で、夏の日が傾いていく。子どもの走る声が、通りを一度だけ抜けていった。
「オルシュの橋は、直った」
「聞きました」
「合同評議は、揉めているそうだ」
「そうでしょうね」
彼女は、器を置いた。
「手引きが、どこででも手に入るようになりました。配る側の意味が、薄れています」
「お前がやったのか」
「私は、書いただけです」
「それを、やったと言う」
カイエルはそう言って、少しだけ笑った。彼女は、湯を一口飲んだ。熱すぎた。
「聞くぞ」
「はい」
「お前はどうする」
三度目だった。去年の春に一度。今年の春に一度。そして、今日。リリアーナは、器を置いた。置く音が、思ったより大きかった。
「席は、断りました」
「知っている」
「手順は、渡しました。私がいなくても止まらない形に、しました」
「それも知っている」
「役割は、終わりました」
彼女は、そこで一度、息を吸った。
「終わってみると、私には、何も残っていません」
「そうか」
「はい」
カイエルは、急かさなかった。彼はいつも、待つときは完全に待つ。
「一つだけ、あります」
リリアーナは机の上の白紙に手を伸ばした。伸ばして、止めた。渡す前に、自分の口で言わなければならない気がした。書いたものを渡すのは、彼女がいつもやってきたことだ。今日は、それではいけない。
「私は」
声が、少しだけ掠れた。
「見に行きたいのです」
カイエルが、こちらを見た。
「どこへ」
「オルシュへ。それから、リーヴェルトへ。ルツェへ。ヴェルクへ」
彼女は順に挙げた。挙げているうちに、自分でも意外なほど、次が出てきた。
「星導教領の、あの村へも。泉を封じた村です。畑が、その後どうなったのかを、私は知りません」
「線を引きにか」
「いいえ」
彼女は、はっきりと否定した。
「引きに行きません。何も直しません。頼まれても、断ります」
「では、何をしに行く」
「見に行くだけです」
言ってしまうと、それはひどく子どもじみて聞こえた。彼女は、少し恥じた。
「三年、紙で見てきました。報告と、数字と、誰がどこで止まっているかの一覧で。実際にどうなっているのかを、私は一度も見ていません」
「それは、仕事にはならんな」
「なりません」
「金にもならん」
「なりません」
「誰の役にも立たない」
「立ちません」
カイエルはしばらく黙っていた。それから机の上の白紙を、初めてまっすぐに見た。
「読んでいいか」
「……どうぞ」
彼は、紙を手に取った。中央に、一行だけ書いてある。
――見に行きたい。
それだけだった。他には何もない。日付も、案件名も、関係者も、論点も、判断が必要な箇所も、どこにもない。
カイエルは、それを長いあいだ見ていた。
「これを書くのに、どのくらいかかった」
「一晩です」
「一晩」
「書き方を、知りませんでしたので」
彼は紙を机に戻した。丁寧に、元の位置に。そして、言った。
「なら、行こう」
リリアーナは、顔を上げた。
「……あなたが、ですか」
「他に誰がいる」
「第二王子が、二月も王都を空けるのは」
「空けられる」
カイエルは、あっさりと言った。
「兄上が書類を溜めなくなった。俺がいなくても、回る」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「それに」
窓の外を見た。日が、ずいぶん傾いている。
「お前が答えないうちは、俺も答えられないと言った」
「……はい」
「答えたな」
リリアーナは、頷いた。頷きながら、自分の頬が少し熱いことに気づいた。三十年生きて、こんな理由で顔が熱くなったのは初めてだった。
「では、私の問いにも、答えていただけますか」
「何だ」
「あなたは、どうしたいのですか」
カイエルは、それを聞いて、初めて言葉に詰まったようだった。彼はしばらく考えて、それから、いつも通りの率直さで言った。
「考えておく」
「……一年ですか」
「そんなにかからん」
彼女は思わず笑った。声を出して笑ったのは、たぶん三年ぶりだった。
窓の外で、夏の光が、床に長い影を落としている。
かつて王宮の廊下で、彼女は同じ影を見ながら、切られる前提で動こうと決めた。あのとき、影は去っていく背中を照らしていた。
去年の春、この部屋で、同じ影は留まる床に伸びていた。今、その影の上に、椅子が二つ並んでいる。
出発は、来週にした。荷は多くない。最初から、必要以上のものを持っていない。
白紙は、持っていくことにした。書いてしまった以上、もう白紙ではないのだが、しまう場所を思いつかなかった。
第二部は、ここで一区切りです。
一年前に置いていかれた「お前はどうする」に、彼女は仕事にならない答えを返しました。金にもならず、誰の役にも立たない答えです。それを言えるようになるまで、二十話かかりました。
異端指定は保留のまま、カルドは諦めておらず、荷物には白紙が一枚入っています。旅は、まだ始まっていません。
また続きでお会いできましたら。ブックマークと評価を置いていっていただけると、こちらも助かります。




