第118話 誰のものでもない形
カルド・ヴァルグリスは、手順書を三度読んだ。一度目は、中身を確かめるために。二度目は、写せるかどうかを見るために。三度目は、写したあとに何が起きるかを考えるために。
三度目で、彼は筆を置いた。
執務室の窓は北向きで、昼でも光が回らない。中央神殿の建物は、そういうふうに建てられている。星を読む者が眩まないように、と昔の誰かが決めた。カルドは、その決まりを合理的だと思ったことが一度もない。星は夜に読む。昼に眩んでも困らない。
だが、その決まりは三百年続いている。続いているものには、続いているだけの理由があると人は思う。実際には、誰も検討しなかっただけだ。検討しなかったことが積み上がって、制度と呼ばれるようになる。
彼が壊したかったのは、それだった。
「準備室長を」
彼は、扉の外へそう言った。若い司祭が来た。合同評議の準備室を仕切っている男で、有能だ。手引きの編纂を実際にやったのはこの男だった。
「これを」
カルドは、手順書を差し出した。司祭は受け取り、目を通した。速い。三分の一ほど読んだところで、顔色が変わった。
「これは」
「手引きの第三章の、続きです」
「……どちらから」
「エヴァレット殿です」
司祭は、しばらく黙って読み続けた。読み終えて、顔を上げた。
「素晴らしい。第四章として、すぐに」
「入れません」
カルドは、そう言った。司祭が、瞬きをした。
「なぜです。これがあれば、手引きは完成します。各都市が止まっているのは、まさにここの部分で」
「完成するからです」
彼は、椅子の背にもたれた。
「あなたに、一つ聞きます。手引きは、なぜ配られると思いますか」
「……そこにしか、書かれていないからです」
「そうです」
カルドは、頷いた。
「都市が我々の手引きを取るのは、他に取るものがないからだ。手引きは希少だから、権威を持つ。写しは我々が管理し、配付先は我々が決める。決められるから、我々は数えられる」
「はい」
「これを見なさい」
彼は、手順書の最後の紙を指した。そこには、こう書いてある。
――この手順は、誰が写しても構いません。写す際に、出典を記す必要はありません。書き換えて構いません。書き換えたものを、また誰かが写して構いません。
「エヴァレット殿は、これを、我々にも送っています」
司祭の目が、はじめて泳いだ。
「……我々にも、ですか」
「四部作られたそうです。書記官補佐に一部。元神託官に一部。オルシュの議場に一部。そして、私に一部」
カルドは、少しだけ笑った。笑うのは、ずいぶん久しぶりだった。
「もう、こちらへ回ってきている頃でしょう。リーヴェルトの書記が写して、ルツェへ送ったと聞きました」
司祭は、手順書を握ったまま動かなかった。
「これを第四章に入れれば、手引きは完成します。完成した手引きは、どこででも手に入る。どこででも手に入るものを配る組織に、誰も許可を求めません」
「……では、入れなければ」
「入れなければ、手引きは未完成のままです。未完成の手引きと、完成した写しが、同じ都市に並びます」
カルドは、窓のほうを見た。
「どちらでも、同じです」
司祭は、しばらく手引きの背を見ていた。編纂に半年をかけた冊子だ。彼が夜を削って組んだ目次でもある。
やがて、小さく息を吐いた。
「……やられましたね」
「ええ」
「怒っておられないのですか」
「怒る根拠がありません」
彼は、そう答えた。実のところ、彼は、自分の気分をうまく名づけられずにいた。悔しさではない。敗北感でもない。もっと乾いた、はっきりしたものだった。
三十年、彼は同じことを考えてきた。人が迷うことで失われるものを、どうすれば減らせるか。神託で答えを配ろうとして、ヴェルクで人を焼いた。答えではなく決め方を配ろうとして、今、その決め方が誰のものでもなくなった。
目的は、達成された。彼が望んだ通り、決め方は世界中に配られる。彼が望まなかった形で。中央に、彼はいない。
その日の夕方、彼は自分で馬を出した。従者はつけなかった。リリアーナの家に着いたのは、三日後の昼だった。彼女は驚かなかった。返事を出した以上、来ると分かっていたのだろう。
「一つ、伺いたいことがありました」
「どうぞ」
「あなたは」
カルドは、そこで少しだけ言葉を探した。探すのも、久しぶりだった。
「私の構想を、完成させて、無価値にしましたね」
リリアーナは、しばらく黙っていた。
「そのつもりは、ありませんでした」
「ないほうが、始末が悪い」
「……申し訳ありません」
「謝られると、こちらが困ります」
彼は、外套を直した。
「私は、まだ諦めていません」
「存じています」
「人が迷うことで失われるものは、確かにあります。あなたの手順は、それを減らしません。減らすのは、決められる人が増えたときだけです」
「ええ」
「増えますか」
リリアーナは、答えなかった。カルドは、それでいいというように頷いた。
「次は、別のやり方で来ます」
彼は、そう言って帰っていった。最後まで、脅しの調子は、どこにもなかった。
完成させて、無価値にする。カルドの言い分は、たぶん正確です。
彼は怒りませんし、負けたとも言いません。次は別のやり方で来ます、とだけ置いていきます。
次回、オルシュの議場の壁に、貼り紙が一枚。名乗る人が出るまで、三日かかります。
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