第117話 公開
返事は、二通書いた。一通目は、合同評議の準備室宛だった。短い。
――席は、辞退いたします。
――理由は、常任の席が、私の不在によっても決議を積み上げるためです。
――発足に反対はいたしません。
二通目は、もっと長くなった。厚さにして、指の腹ほどある。表紙はつけなかった。題もつけなかった。中は、ただの手順書だった。
第一に、分けたあとで着手順が決まらない場合の扱い。第二に、着手順を決める権限を、誰がどう持つかを確定させる手順。
第三に、確認する者と承認する者を分ける理由と、分けたときに起きる典型的な失敗。第四に、引き受ける者が出ないときに、名乗れる場をどう作るか。
第五に、外れたときに、誰がどう直すか。どれも、彼女が三年間、口でしか説明してこなかったものだった。
書きながら、彼女は何度も手が止まった。書けば、それは教本になる。教本には名前がつく。名前がつけば、旗になる。
(旗になる)
その心配を、彼女はもう一度検討した。三年前に一度した検討を、今度は結論を決めずにやり直した。
旗になるのは、書いたものに名前がついたときだ。名前がなく、しかも誰でも使える形で置かれたものは、旗にならない。旗にするには、掲げる者が要る。掲げるには、それが誰かのものでなければならない。
誰のものでもないものは、掲げられない。彼女は、表紙をつけないことにした。序文も書かなかった。この手順の由来も、成り立ちも、書かなかった。
書いたのは、手順だけだ。写しは、街の写字生に頼んだ。教会の脇に小さな仕事場を構えている男で、普段は遺言状と証文を写している。彼女が原稿を置くと、男はぱらぱらと繰って、少し顔をしかめた。
「これは、何の書き付けです」
「手順です」
「何の」
「決められないときに、決められるようにするための」
男は、もう一度繰った。
「見たことのない型ですね。証文でもないし、教本でもない」
「教本には、しないつもりです」
「なぜです。これ、教本にしたら売れますよ」
彼は、商売の顔で言った。
「題をつけて、書いた方の名前を入れて、序文を足せば、立派なものになります。うちで版を彫ってもいい」
「名前は、入れません」
「もったいない」
「入れると、売れます」
リリアーナが言うと、男は怪訝な顔をした。
「売れると、困るのですか」
「困ります」
「はあ」
「もう一つ、お願いがあります」
「なんです」
「末尾に、この一行を足してください」
彼女は、小さな紙を渡した。男はそれを読んで、また眉を寄せた。
「……誰が写しても構わない、出典も要らない、書き換えてもいい。本気ですか」
「本気です」
「こんな断りを入れる書き付けは、初めて見ましたよ」
「そうでしょうね」
彼女は、それ以上説明しなかった。男も、それ以上聞かなかった。四部で、と伝えて、代金を先に払った。
六日後に受け取りに行くと、男は五部を出してきた。
「一部、多いです」
「余分に彫りましたので。おまけです」
「頼んでおりません」
「まあ、そう言わずに」
彼は、包みを押しやった。
「これ、写しながら読みましてね」
「……ええ」
「うちにも、揉め事があるんですよ。組合で、誰が徒弟を取るかで、三年揉めてる」
「三年」
「三年です。皆、正しいことを言うんですわ」
男は、そう言って苦笑した。
「使ってみます。それで、駄目だったら文句を言いに行きますよ」
「どちらへ」
「そりゃ、あんたに」
彼は、包みを紐で結びながら、平然と言った。
「名前がないなら、持ってきた人に言うしかないでしょう」
リリアーナは、その言葉を、しばらく考えた。
「……ええ」
「怒りませんか」
「怒りません」
彼女は、包みを受け取った。
「文句は、いちばん要るものです」
一部はアルノーへ。一部はルシアへ。一部はオルシュの議場へ。最後の一部を前にして、彼女は少し迷った。
迷って、宛名を書いた。中央神殿、カルド・ヴァルグリス。
(……これで)
封をしながら、彼女は自分のしていることの意味を確かめた。この手順は、写せる。誰でも使える。カルドが使えば、合同評議の手引きは完全になる。彼の構想は、これで最後の空白を埋める。
埋めた瞬間に、その構想は、彼のものではなくなる。誰でも使えるものを、独占はできない。手引きの権威は、そこにしか書かれていないことから生まれる。どこにでもあるものを配っても、配る側に力は集まらない。
彼女は、三年間、自分の方法を手元に置いていた。置いていたから、彼女がいないと止まった。止まるから、必要とされた。必要とされることが、彼女の権力だった。
その権力を、手放す方法は一つしかない。誰でも持てるようにすることだ。使いに四通を渡したのは、翌日の朝だった。
渡してしまうと、部屋には何も残らなかった。手元にあるのは、机の上の白紙一枚だけだ。中央に、一行だけ書いてある。
その紙は、まだ誰にも見せていない。
三日後、アルノーから返事が来た。
――受け取りました。
――第四のところで、手が止まりました。名乗れる場を作る、というのは、俺がやることでしょうか。
――やってみます。
五日後、ルシアからも来た。
――拝受しました。
――星の読み方の教本を、七年前に写したことがあります。あれには、名前がありました。
――これには、ありませんね。
カルドからの返事は、十日後に来た。封を切ると、紙は一枚だけだった。
――受け取りました。
――一つ、伺いたいことがあります。近く、伺ってもよろしいですか。
リリアーナは、その一枚を、机の上に置いた。白紙の隣に並べると、どちらも同じくらい静かだった。
手順書の第四に「名乗れる場を、先に作ること」と書きました。
ここだけは、彼女が三年かけても言葉にしてこなかった部分です。書けたので、渡せました。
次回、受け取った側の話です。三度読んだ男が、三度目に何を考えたか。
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