第116話 白紙
日が落ちる前に、家主の女が来た。この街に来てから借りている家の持ち主で、二軒先に住んでいる。月に一度、店賃を受け取りに来るついでに、たいてい何かを持ってくる。
「余りものですけどね」
女は、布をかけた皿を框に置いた。豆を煮たものらしい。
「いつも、ありがとうございます」
「一人だと、こういうものは作らないでしょう」
「作りません。一人分は、量の加減が難しいので」
「でしょうね。そういう顔してるもの」
「なぜ、分かるのですか」
「一人暮らしは皆そう。煮物ってのは、量が減らせないからね」
「……そうですね。減らせないので、作らなくなります」
「あんた、料理は」
「必要な分は、作れます」
「必要な分ね。あんた、そういう言い方ばっかりする」
女は笑って、それから部屋の中を見た。
「あんた、この頃、荷物が減ったね」
「そうでしょうか。自分では、変わらないつもりでおりました」
「前は、紙の束が積んであったよ。よく夜まで灯りがついてた」
「……ええ」
「仕事、辞めたの」
リリアーナは、返事に迷った。辞めたと言えるほど、始めた覚えもない。
「辞めた、という言い方が、正しいのかどうか」
「まあ、辞めるってのは、たいていそういうもんですよ」
女は、皿の布を直しながら、あっさりと言った。
「気づいたら来なくなってる。区切りなんか、つかない」
「区切りは、つけたほうがよいのでしょうか」
「つけたい人はつければいいさ」
「あなたは、つけましたか」
「つけなかったね。つけようと思ったことも、なかった」
女は、框に腰を下ろした。
「亭主が死んだあと、店を畳むかどうか、二年迷った。畳むって決めた日はないよ。ある日、注文を断って、それきり」
「……それで、よかったのですか」
「よくはないよ。でも、悪くもない」
彼女は、思い出し笑いのような笑い方をした。
「決めたことにしとくと、後で恨むからね。誰を恨むって、自分をさ」
「決めなければ、恨みませんか」
「恨まない。ただ、長いこと、ぼんやりする」
リリアーナは、それを聞いて、少し黙った。
「あんた、何か決めるの」
「……決めなければ、ならないようです」
「そりゃ大変だ。決めるってのは、疲れるからね」
女は、膝を叩いて立ち上がった。
「ま、豆でも食べて。腹が減ってると、ろくなことを考えないよ」
そう言って帰っていった。
その夜、リリアーナは引き出しから白紙を出した。去年の春にしまったものだ。カイエルが案件を持たずに来た日、使う場所のなかった紙。捨てはしなかった。捨てる理由も、取っておく理由も、どちらも言えないままだった。
彼女は、それを机の中央に置いて、灯りを一つだけ点けた。王宮にいた頃から、夜に紙を扱うときは灯りを一つにしている。二つ点けると、手元と部屋の両方が見えて、集中が散る。
筆を持った。書き出しは、いつも決まっている。日付。案件名。関係者。論点。判断が必要な箇所。
(案件名、と書くところで止まる)
彼女は、そこで止まった。この紙は、案件ではない。では、何を書けばいいのか。
筆を置いた。しばらくして、もう一度持った。今度は、思いつくままに書いてみようとした。書けなかった。思いつくままに、という手つきを、彼女は持っていない。頭に浮かぶのは、いつも整理された形をしている。
――席を受けた場合の帰結。
そう書きかけて、線で消した。次の行に、もう一つ書いた。
――席を断った場合の帰結。
これも消した。どちらも、正確に書ける。書けるからこそ、書く意味がない。書いたものを見て、彼女は何かを決めるだろう。決めた結果は、三年前と同じ場所に着く。それでは、去年の春から一歩も動いていない。
(私は)
彼女は、筆を置いて、灯りの芯を少しだけ細くした。私は、何をしたいのか。
問いを、そのまま声に出さずに置いてみた。頭の中で、それは奇妙に響いた。文法としては通っているのに、意味を結ばない。したい、という語が、自分の名前と並んだことがない。
王宮にいた十年、彼女は自分の希望を一度も申告していない。婚約は家が決めた。役目は立場が決めた。仕事は必要が決めた。どれも不満ではなかった。決まっていることを回すのは、得意だった。
切られたときも、そうだった。切られる前提で動こう、と決めた。あれは希望ではない。予測に対する備えだ。
三年前の契約も、そうだ。条件は良かった。良かったから受けた。良いかどうかは、彼女が望むかどうかとは関係がない。
(一度も、ない)
夜が深くなった。通りの音が消えて、家鳴りだけが時々した。彼女は、白紙を見ていた。紙は、何も要求してこない。期日も、決裁欄も、宛名もない。三十年生きてきて、要求してこない紙を前にしたのは、これが初めてだった。だから、書けない。
(……いや、違う)
書けないのではない。書いたことがないから、書き方を知らないだけだ。それなら、覚えればいい。覚え方を、彼女は知っている。分からないものは、分かるところまで分解する。分解して、いちばん小さい単位から確かめる。それだけのことだ。
いちばん小さい単位。したいことの、いちばん小さいもの。彼女は、目を閉じた。
浮かんだのは、意外なものだった。あまりに小さくて、最初は数えなかった。二度目に浮かんだとき、彼女はそれを追い払った。仕事ではないからだ。誰の役にも立たない。責任も、権限も、そこには一切かかわらない。
三度目に浮かんだとき、追い払う理由が見つからなかった。役に立たないから駄目だ、というのは、役に立つことを求められている者の理屈だ。誰にも求められていない今、その理屈はもう働かない。
(……これは)
窓の外が、わずかに白みはじめていた。リリアーナは、筆を取った。白紙の中央に、一行だけ書いた。
書き終えて、しばらくそれを見ていた。字は、思ったより整っていなかった。彼女はその紙を折らず、伏せもせず、机の上に置いたまま、灯りを消した。
分からないものは、分かるところまで分解する。彼女のいちばん得意な手つきです。
その手つきを、初めて自分に向けます。一晩かけて一行というのは、遅いようでいて、たぶん妥当な速さでした。
次回、返事を二通書きます。一通は五行で済み、もう一通は指の腹ほどの厚さになります。
書いた一行の中身は、まだ伏せておきます。続きはブックマークでお待ちください。




