第115話 お前はどうする
カイエルは、その日も案件を持っていなかった。もう三度目になる。三度とも、彼は何も持たずに来て、しばらく座って、帰っていった。今回は、外に椅子を出した。日が長くなって、家の前の石段に夕方まで光が残るようになったからだ。
二人は並んで座った。並ぶ、というのも初めてだった。机を挟めば、向かい合う。向かい合えば、どちらかが問い、どちらかが答える形になる。横に並ぶと、その形が崩れる。
「オルシュの橋は、直りかけている」
「そうですか」
「合同評議の準備室から、金と人が出た」
リリアーナは、それを聞いても驚かなかった。手引きを配った側が、手引きの通りに動かなかった都市を放置するはずがない。放置すれば、手引きの価値が下がる。
「うまくやりますね」
「うまい」
カイエルは、認めた。
「あの司祭は、俺の兄よりよほど政治が分かっている」
その言い方に、彼女は少しだけ間を置いた。アルベルトの名を、この人が出すのは久しぶりだった。
「あの方は、正しいことしか言いません」
「そうだな」
「厄介です」
「厄介だ」
二人とも、それ以上は続けなかった。
「兄上は、お元気ですか」
「元気だ。書類を溜めなくなった」
「それは、何よりです」
それだけで、その話は終わった。二人とも、それ以上必要としなかった。通りを、荷車が一台通っていった。子どもが二人、その後ろを走っていった。
石段は、日を受けてまだ温かい。この街に来た年、彼女はここに座ったことがなかった。座る用がなかったからだ。家は寝るための場所で、机は書くための場所で、それ以外の使い道を、彼女は割り当てていなかった。
外に椅子を出したのは、この人が三度目に来たときだ。中に入れておくと、話が机の話になる。机の上には、いつも紙がある。紙があれば、案件になる。
だから、外にした。
「聞く」
カイエルが言った。
「はい」
「お前はどうする」
リリアーナは、その問いを、去年の春から数えて二度目に受けた。一度目のとき、彼女は分かりませんと答えた。答えたあとで、考えておけと言われた。一年、考えなかった。考える形を持っていなかったからだ。
「席については、断る方向で考えています」
「そうか」
「理由は三つあります。第一に、常任の席は、出席しなくても私の名で決議が積み上がります。第二に――」
「そうじゃない」
カイエルが、遮った。彼女は、口を閉じた。
「席の話をしていない」
「……では、何の」
「お前が、どうしたいか」
リリアーナは、そこで初めて、自分が今、何を答えようとしていたのかに気づいた。彼女は、いつも通り並べていた。選択肢と、その帰結と、責任の所在を。それは、判断が必要な場所を可視化する作業だ。三年やってきた仕事だ。
自分がどうしたいかは、その作業のどこにも入っていない。
「……私は」
言いかけて、止まった。言葉の続きが、本当に出てこなかった。頭の中を探しても、そこには帰結の一覧しかない。断ればどうなる。受ければどうなる。どちらも、彼女は正確に予測できる。
予測できることと、望むことは、まったく別の作業だった。
「私は、そういう考え方を、習っていません」
それが、彼女の口から出た全部だった。カイエルは、黙っていた。石段の先で、影が長くなっていく。
「習うものか、それは」
「分かりません」
「俺も分からん」
彼は、膝の上で指を組んだ。
「俺は、第二王子として生まれて、兄がいて、王にはならない。何をしたいかを聞かれたことはない。聞かれる立場じゃなかった」
「……ええ」
「三年前、お前に会って、初めて考えた」
彼は、まっすぐ前を見ていた。
「この女は、切られる前提で動いている。切られたあとの場所を、先に作っている。俺には、それがなかった」
「殿下には、王宮があります」
「ある。だが、それは俺が選んだ場所じゃない」
「私も、選んでおりません」
「だからだ」
カイエルは、少しだけこちらを見た。
「選んでいない場所で、選んでいない役目をやって、それでも先を作れる人間がいる。それを見て、俺は、自分が何もしていないことに気づいた」
リリアーナは、彼のほうを見なかった。見ないほうがいい気がした。
「だから、組んだ」
「利用価値だと、おっしゃいました」
「言った」
「あれは、嘘でしたか」
「嘘じゃない」
カイエルは、少し笑った。
「嘘じゃないが、全部でもなかった」
通りの向こうで、誰かが窓を閉める音がした。
「考えておけと言って、一年経った」
「……申し訳ありません」
「謝るな」
彼は立ち上がった。
「急がせるつもりはない。だが、これだけは言っておく」
一拍。
「お前が答えないうちは、俺も答えられない」
その言葉の意味を、リリアーナは正確には掴めなかった。掴めないまま、胸の奥に静かに落ちた。
彼が去ったあと、彼女は石段に座ったまま、日が完全に落ちるまで動かなかった。
石が冷えていくのが、手のひらから伝わってくる。夕方の光は、もう石段の端にしか残っていない。冷えても、立つ理由がなかった。中に入っても、机の上には何もない。
机を挟むと、どちらかが問い、どちらかが答える形になります。
今回だけ、二人を横に並べて座らせました。それだけで、話す中身が変わりました。
次回、一晩かけて、一行だけ書きます。
恋愛は控えめのままですが、ここは少しだけ動きます。よろしければ評価を。




