第114話 星を読まない神託官
ルシア・エルフェルトが返事を出したのは、その週の終わりだった。文面は、三行だった。
――席には、座りません。
――理由は、間に合わせるために資格を返した者が、間に合わせるために戻るのは、筋が通らないからです。
――星は、これまで通り読み、これまで通り置いていきます。
封をして、宿の主人に託した。それだけのことに、二月かかった。
二月のあいだ、彼女は普段どおり歩いた。星を読み、書き留め、置いていった。誰にも相談しなかった。相談すれば、相手の顔が判断に混じる。あの村で泉を封じたとき、彼女の判断には、村人の顔が混じっていた。
一人で決めるというのは、そういうことだ。誰の顔も入れずに、自分の理由だけで決める。三行を書き終えたとき、彼女は自分が少し軽くなったのを感じた。軽くなったことに、少し警戒もした。
夕方、彼女はリリアーナの家に寄った。
「断りました」
「そうですか」
「意外そうな顔をなさいませんね」
「あなたなら、そうされると思っていました」
ルシアは、笑わなかった。旅の埃が、外套の裾にまだ残っている。断りの返事を出したその足で、ここまで来たらしかった。
「私は、迷いました。二月です」
「二月も、ですか」
「ええ」
彼女は、外套を脱いで椅子の背にかけた。
「席に座れば、私の言葉は届きます。今は届きません。村に行っても、私の書いた紙は、机の隅に置かれるだけです。合同評議の手引きは、貼り出されます」
「……ええ」
「届く言葉を持てるなら、そのほうが人は助かります。あの漁村で、私が三日と書けていたら、二艘は出なかった」
リリアーナは、口を挟まなかった。ルシアは、しばらく黙ってから、続けた。
「それでも、断りました。届く言葉を持つと、私は、届かせるために書きます。書けないことを書きます。あの村で泉を封じたときと、同じことをします」
「怖いのですね」
「怖いです」
彼女は、あっさり認めた。
「怖いままにしておこうと思います。怖くなくなったら、そのときが危ない」
二人は、しばらく窓の外を見ていた。日が長くなっている。夕暮れが来るのが、毎日少しずつ遅い。
リリアーナは、この人の断り方を、頭の中で組み直していた。
筋が通っている。届く言葉を持てば、届かせるために書いてしまう。書けないことを書けば、また誰かが死ぬ。だから届かない場所に留まる。損得ではなく、自分の弱さの見積もりから出た結論だった。
彼女自身の断る理由は、そういう形をしていない。表に立てば権力になる。旗になれば役割が終わる。どちらも、世界の側の話だ。自分の弱さは、どこにも入っていない。
「あなたは」
ルシアが、口を開いた。
「まだ、決めていませんね」
「……ええ」
「理由を伺っても」
リリアーナは、少し考えてから答えた。
「私は、断る理由を持っています。三年前から、同じ理由です。表に立てば権力になる。旗になれば役割が終わる」
「では、断ればよいのでは」
「その理由が、まだ本当かどうか、分からなくなりました」
言ってしまってから、彼女は自分の言葉を確かめた。
「先日、指摘されました。拒否できるということ自体が、すでに権力だと」
「カルド殿ですか」
「はい」
「あの方は、正しいことしか言いません」
ルシアは、そう言って、初めて少し嫌そうな顔をした。
「正しいことしか言わないので、間違えたときに、誰も止められません」
「……そうですね」
「ですが、あの指摘は当たっています」
彼女は、器を置いた。置く手が、ほんの少し止まった。言うかどうかを、この人でも迷うことがあるのだと、リリアーナは思った。
「あなたは、もう外側にいません。三年前から、いません」
「……表には、立っておりません」
「立たないことと、外にいることは、別です」
リリアーナは、目を伏せた。外側にいるつもりでいた。表に立たないことを、外側にいることだと思っていた。だが、彼女が動かないだけで橋が落ちる場所は、もう外側ではない。
「私は、断る理由を先に決めました」
ルシアが言った。
「そして、二月かけて、その理由がまだ本当かどうかを確かめました。確かめたので、断れました」
「……」
「あなたは、理由を三年前に決めたまま、一度も確かめていないのではありませんか」
その言葉は、静かだった。責める調子はどこにもなかった。リリアーナは、答えられなかった。ルシアは、それ以上追わなかった。
翌朝には、また街道へ出ていくという。彼女はいつも長く留まらない。荷は背嚢が一つきりで、その中身のほとんどが紙と筆と、星図の写しだ。宿を取らない日も多いらしい。
そういう暮らしを、この人は自分で選んだ。選んだものを、二月かけて選び直した。
「一つだけ」
扉のところで、ルシアが振り返った。
「あなたが席に座るなら、私は反対しません」
「……よろしいのですか」
「私は、私の理由で断りました。あなたには、あなたの理由があるはずです」
彼女は、少しだけ首を傾げた。
「その理由を、まだ私は聞いていません」
ルシアの断り方は、リリアーナのやり方と対になっています。
理由を先に決め、二月かけて、その理由がまだ本当かどうかを確かめてから断る。厄介なのは、確かめる、のほうです。
次回、カイエルが去年の問いを繰り返します。今度は逃げ場がありません。
ここからは、彼女が決める番です。ブックマークで見届けていただけると助かります。




