第113話 拒否の限界
カルド・ヴァルグリスは、二度目も一人で来た。今度は、彼女のほうが呼んだ。呼んだのは初めてだった。
書簡を出したのは、手引きの写しを手に入れた翌日だ。文面は五行で済んだ。伺いたいことがあります、日時はそちらの都合で結構です、と。
返事は三日で来て、来訪はその四日後だった。中央神殿からここまでは、馬で六日かかる。返事を出したその足で発ったことになる。
(……速い)
速さは、誠実さの一種だ。彼女は、それを知っている。三年前、カイエルも同じ速さで動いた。
「手引きを、拝見しました」
「よく書けているでしょう」
「ええ」
リリアーナは、正直に認めた。認めないほうが不誠実だった。
「手引きの第三章は、私が三年かけて口で説明してきたことより、はっきりしています」
「私は、書くのが仕事ですので」
カルドは、机の上に手引きを置いた。薄い冊子だ。表紙に発行元はあるが、著者名はない。
「一つ、伺います」
「どうぞ」
「あの手順に、私の資料を組み込みましたね」
「はい」
「許可を求めた覚えはありません」
「求めれば、断られましたので」
同じやりとりを、二度した。二度目は、一度目より短く済んだ。互いに、相手がどう答えるかを知っていたからだ。
リリアーナは、指を組んだ。この男と話していると、いつも同じところに引っかかる。嘘がない。誤魔化しもない。事実を並べ、事実に従って動く。彼女が三年間、自分の武器にしてきたやり方と、まったく同じだった。
同じやり方の人間と対峙するのは、これが初めてだった。
「一つ、確かめさせてください」
「どうぞ」
「あなたは、この手引きを、どこまで配るおつもりですか」
「配れるところまで」
カルドは、即答した。
「止める理由がありません。止めれば、止めた側が決め方を独占します」
「……ええ」
「あなたなら、そうお考えになるはずです」
その言い方が、いちばん堪えた。
「私は、関与を拒否します」
その一言を、彼女は用意していた。三年前の契約に書き足させた条項。自身の判断が政治的に利用される場合、関与を拒否できる。
「承知しました」
カルドは、あっさり頷いた。
「席は空席のままにしておきます」
「手引きの第三章も、取り下げてください」
「それは、できません」
彼は、少しも表情を変えなかった。
「あれは、あなたの資料そのものではありません。あなたのやり方を、写して、書き直したものです。取り下げる根拠がありません」
「私が、拒否しています」
「拒否は、参加についての権利です」
カルドは、静かに言った。
「あなたが参加しないことは尊重します。ですが、あなたが参加しないからといって、世界があなたのやり方を使ってはならない、という話にはなりません」
リリアーナは、返す言葉を探した。探して、見つからなかった。その条項は、彼女を守るために作った。彼女が巻き込まれないための線だ。世界に対して何かを禁じる力は、初めから持たせていない。
「……ええ」
彼女は、認めた。
「あなたの言う通りです」
「怒っておられますか」
「怒る根拠が、ありません」
カルドは、そこで初めて、わずかに姿勢を変えた。
「一つだけ、申し上げます」
「なんでしょう」
「あなたが拒否できるということ自体が」
彼は、まっすぐに彼女を見た。
「あなたが権力である証拠です」
空気が、一度、止まった。
「拒否は、影響力のある者にしか意味がありません。誰も気にしない者が拒否しても、何も起きない。あなたが拒否すれば、こうして私が来る。私が来て、説明する。それが権力でなければ、何ですか」
リリアーナは、答えなかった。
三年間、彼女は表に立たないことで権力を避けてきた。名を出さず、決めず、旗にならず。そうすれば権力にならないと思っていた。旗になった瞬間に役割は終わる、という一行を、彼女は自分への戒めとして持ち歩いてきた。
だが、彼女の不在は、すでに世界を止める。
オルシュの橋が落ちたのは、彼女がまだ私の問題ではありませんと書いたからだ。会議は開かれていた。分類表も貼られていた。手順は守られていた。それでも動かなかったのは、その先を知っている者が、一人しかいなかったからだ。
一人しかいない者が動かなければ、そこで止まる。動かないことに、それだけの重さがある。重さのあるものは、権力と呼ばれる。表に立っているかどうかは、関係がない。
「……いつからですか」
彼女は、そう尋ねた。
「私が、そうなったのは」
「知りません」
カルドは、外套を取った。立ち上がる動作にも、迷いというものがない。この男は、来たときから帰る時刻を決めていたのだと分かった。
「ですが、少なくとも私が異端指定を出した日には、そうでした。存在しないものは、指定できません」
彼は、扉のところで足を止めた。
「席は、置いておきます。あなたが座らないことも、我々は数えます」
扉が閉まった。リリアーナは、しばらくそのまま座っていた。拒否権は、生きている。生きていて、何も止められない。
(三年前に引いた線が)
その線は、今も正しい位置にある。位置は正しく、意味だけが失われていた。
表に立たなければ権力ではない、と彼女は考えてきました。
動かないことに重さがあるなら、それはもう権力だ、と言われてしまいます。反論の形が、見つかりません。
次回、ルシアのほうが先に答えを出します。三行の返事です。
このあたりが第二部の底です。ブックマークで先までお付き合いください。




