第112話 三度目の第三の道
彼女が選んだのは、いつものやり方だった。署名はしない。宛名も書かない。ただ、必要な資料を、必要な順番で、必要な場所へ送る。三年前、大陸評議会に対してそうした。二年前、リーヴェルトでもそうした。
今度は、三通に分けた。一通目は、オルシュの議長役へ。着手順を決める権限が誰にあるかを、まず一枚の紙で確定させる手順。決めるのは彼女ではない。決める者を決める手順だけを書いた。
二通目は、アルノーへ。同じ手順の、少し詳しい版。それに一行だけ足した。
――引き受ける者は、選ばれるのではなく、名乗ります。名乗れる場を、先に作ってください。
三通目は、リーヴェルトの書記へ。オルシュで起きたことを、そのまま伝えるための記録の様式。
どこにも彼女の名前はない。どこにも指示はない。あるのは、順番と、様式と、問いだけだ。
(これで、動く)
三度目だった。一度目は評議会に対して。二度目はリーヴェルトに対して。二度とも、これで動いた。
書き終えて、封をして、使いに渡した。手が覚えている作業だった。
春が終わりかけていた。窓を開けても、朝の空気はもう冷たくない。
五日目に、彼女は紙を買いに出た。文具を扱う店は、市場の外れに一軒だけある。年配の主人が、いつも同じ席で帳面を綴じている。
「同じものを、二十枚」
「はい。……ああ、それと」
主人は、棚の下から薄い冊子を出した。
「これは、いりませんか」
「なんでしょう」
「決め方の手引き、というものだそうで。都市の役所から回ってきましてね。写して置いておけば、たまに買っていく人がいます」
リリアーナは、それを受け取った。紙は安い。綴じも簡素だ。だが、中は整っていた。項が振ってあり、目次がついている。
「よく売れますか」
「まあ、ぼちぼち。近ごろ、どこの村も揉めますからね」
主人は、そう言って笑った。
「読んだのですか」
「読みましたよ。うちの組合でも使ってます。三本の線を引くやつ、あれは便利だ」
「……便利ですか」
「便利です。誰が悪いかを言わずに済む」
「そのあとは、どうなさいますか」
「そのあと?」
「分けたあと、誰が先にやるかを決めますね。それは、どう決めておられますか」
主人は、帳面から顔を上げた。
「ああ……それは、うちは古株が決めますよ。昔からそうなんで」
「なるほど」
「そこは、その冊子には書いてないですね。書いてあったかな」
彼は、冊子を繰った。繰って、途中でやめた。
「まあ、うちは古株がいるから、いいんですけどね」
「その方が、いなくなったら」
「いなくなったら?」
「はい」
主人は、少し考えた。
「……そのときは、そのときですな」
「そのときに、決められますか」
「さあ。決められんかもしれん」
彼は、笑って肩をすくめた。
「まあ、そんな先のことは」
彼女は、代金を払って店を出た。冊子は、買わなかった。買わなくても、中身は全部知っていた。
十日後、返事が来た。最初に届いたのは、アルノーからだった。開くと、短い礼と、それから困惑が書いてあった。
――手順は、届きました。ですが、俺が受け取る前に、議場に貼り出されていました。
リリアーナは、二通目を開いた。オルシュの議長役からだった。丁寧な礼状で、こう書かれている。
――合同評議の準備室より、決め方の手引きが配付されました。着手順の権限を確定させる手順が、第三章に載っております。当市はそれに従い、先日、権限者を決定いたしました。
三通目は、リーヴェルトの書記からだった。
――記録の様式、拝受しました。合同評議の準備室から届いたものと、ほぼ同じでしたので、そちらに合わせて運用しております。
この三通目を持ってきたのは、街の使いの少年だった。
「返事は、いりますか」
「……いいえ」
「じゃあ、帰ります」
少年は、そう言って、それから思い出したように付け加えた。
「奥さん、あれ、読みました?」
「あれ、とは」
「決め方の本。うちの学校でも配られたよ」
「学校で」
「先生が、揉めたらこれを使いなさいって。三つに分けるやつ」
少年は、得意そうに言った。
「便利だよ。掃除の当番を決めるのに使った」
「……決まりましたか」
「決まった。誰が確かめるかを先に決めるんだ。そしたら、揉めなかった」
彼は、そう言って走っていった。リリアーナは、扉を閉めた。三通を机に並べた。しばらく、何も考えられなかった。
(……速い)
彼女が送ったものが、届く前に、同じ内容が別の経路で配られていた。準備室は合同評議の発足前から動いていた。手引きは印刷され、写しが各都市へ回されている。
彼女の資料は、その手引きを補強する形で、自然に吸収された。誰も盗んでいない。誰も出典を偽っていない。手引きの第三章は、彼女が三年かけてやってきたことを、正確に、丁寧に、分かりやすくまとめてある。
名前がないから、誰のものでもない。誰のものでもないから、準備室のものになる。彼女は、椅子から立ち上がって、部屋の中を一度歩いた。歩いても、何も変わらなかった。
三年前、彼女が名を伏せて資料を回したとき、セオドール・グランツは激しく困惑した。誰が出したかも分からないのに、影響だけが届く。それは彼の理論の外側にあった。
今回、カルド・ヴァルグリスは困惑しない。名を伏せて出されたものは、名を伏せたまま制度に組み込める。むしろ、そのほうが都合がいい。誰のものでもないものは、いくらでも吸える。
(別の形が)
彼女は、机の上に手をついた。別の形が、通じない。表に立たずに世界を動かす第三の道は、相手が答えを配ろうとしている限り、有効だった。答えの外側から形を渡せば、答えは要らなくなる。
だが、相手が形そのものを配りに来たなら。渡せば渡すほど、相手が強くなる。
その日、彼女は初めて、自分のやり方が使えないという事実を、正面から見た。
名を伏せて、資料だけを順番どおりに回す。この作品が三度使ってきた手です。
一度目と二度目は効きました。三度目に効かない相手を置くところから、第二部は始まっています。
次回、拒否権を行使します。行使しても、今回は何も止まりません。
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