第111話 唯一であること
橋の報せは、二日後に届いた。アルノーからではなかった。街道を回っている行商の口から、荷を受け取る際に聞いた。
「西で、橋が落ちたそうで」
「……どちらの」
「オルシュです。南の、川に架かってるやつ」
男は、木箱を框に下ろしながら言った。
「荷が一台、流れたって。人は無事だそうですが」
「いつのことですか」
「三日前ですかね。雨が続いたでしょう」
「補修は、進んでいなかったのですか」
「さあ。話は出てたらしいですよ」
彼は、代金を数えながら、あまり関心のなさそうな声で続けた。
「出てたけど、決まらなかったんだと。会議はずっとやってたって聞きました」
「……会議は」
「やってたそうです。ちゃんと」
「揉めていたのですか」
「いや、そういうんじゃないらしい」
男は、少し考えるように空を見た。
「揉めてたら、まだ分かるんですがね。誰も怒ってなかったって。ただ、決まらなかったって」
「……そうですか」
「妙な話でしょう。壁に立派な表が貼ってあって、皆それを守ってて、それで橋が落ちる」
男は、釣り銭を返して、荷車のほうへ戻っていった。荷車が動き出す前に、彼はもう一度振り返った。
「奥さん、西のほうに知り合いでも」
「……いいえ」
「そうですか。顔が、そんなふうでしたんで」
リリアーナは、扉を閉めた。それから、しばらく動かなかった。
(分類表は、正しかった)
彼女は、それを確かめるように頭の中で繰り返した。緊急度の列と、着手順の列は別のものだ。分けることは、順番を決めることではない。分けたあとに順番を決める者を立てなければ、止まる。
それは、分かっていた。分かっていて、書き送らなかった。まだ私の問題ではありません、と書いた。
あの一行は、正しかった。正しかったと、今も思っている。だが、橋は落ちた。彼女は、机に向かった。何かを書こうとして、書くことがないと気づいた。今から書いても遅い。落ちた橋は、直すしかない。直し方は、彼女が書かなくても分かる。
書けたはずのものは、もっと前にあった。
(……分け方だけを渡した)
三年前、都市連盟に分類表を置いた。彼らはそれを見て動いた。動けたので、彼女はそれでいいと思った。
リーヴェルトでも、ルツェでも、同じことをした。資料を、順番どおりに、必要な場所へ送った。名前は出さなかった。出せば旗になるからだ。
旗にならないために、彼女は方法ではなく結果だけを置いていった。結果は写せる。分類表は誰にでも作れる。三本の線は、二日あれば覚えられる。
だが、分けたあとに誰が引き受けるのかを決める手順は、彼女の頭の中にしかない。書いたことがない。書けば、それは教本になる。教本には名前がつく。名前がつけば、旗になる。
だから書かなかった。
(私は)
彼女は、椅子の背にもたれた。天井の梁の木目を、意味もなく数えた。私は、自分が要らなくなる形を、一度も作らなかった。
その事実は、思っていたよりも重かった。三年間、彼女は独占していないつもりでいた。表に立たず、決めず、権力にならず、必要なものだけを置いていく。それは、独占の反対だと思っていた。
違う。置いていったのは結果だけだ。方法は手元に残したままだった。だから、彼女がいなければ、その先は誰にも分からない。分からないから、また呼ばれる。呼ばれるから、彼女は必要であり続ける。
必要とされ続ける仕組みを、彼女は無自覚に守っていた。
(……唯一であることは)
いつだったか、自分でそう考えたことがある。ルツェの一件が片づいたあとだ。唯一であることは強さではない、孤独の別名だ、と。
あのとき、彼女はそれを、寂しさの問題だと思っていた。違った。
唯一であるということは、その人が止まれば全部止まるということだ。オルシュは彼女が止まったから止まった。彼女がまだ私の問題ではありませんと書いたから、二十三回目の会議が来た。
橋は、彼女の不在で落ちたわけではない。彼女が唯一であったせいで、落ちた。
夕方、家主の女が店賃を受け取りに来た。
「顔色が悪いね」
「そうでしょうか」
「悪いよ。何かあったの」
「……西で、橋が落ちました」
「西って、うちの街じゃないでしょう」
「違います」
「知り合いが乗ってたの」
「いいえ」
「じゃあ、あんたのせいじゃないでしょう」
女は、あっさりとそう言った。
「……ええ」
「そういう顔してるよ、あんた。自分のせいだって顔」
リリアーナは、返す言葉を探した。
「私は、そこに行っていません」
「行ってないなら、なおさらでしょ」
女は、店賃を数え終えて、帳面に書き込んだ。
「橋なんてのはね、落ちるときは落ちるの。誰が悪いってもんじゃない」
「……ええ」
「うちの亭主が死んだときもね、皆そう言ったよ。誰も悪くないって」
彼女は、帳面を閉じた。
「言われても、全然、慰めにならなかったけどね」
そう言って帰っていった。
夜、灯りを落としてから、彼女は引き出しを開けた。三年前の契約書。丸めなかった紙。そして去年の白紙。
白紙は、あの日から一度も使われていない。使う場所がなかったからだ。契約にも、役職にも、判断整理権にも、拒否権にも、この紙の置き場所はどこにもなかった。
彼女は、白紙を取り出して、机の上に置いた。置いただけで、何も書かなかった。書くべきことは、まだ分からない。ただ、書かなければならないものが一つあることだけは、この日、はっきりした。
いちばん大事なことは、名前のない人が言うことが多いです。
店賃を取りに来た女の「言われても、全然、慰めにならなかったけどね」は、最初の稿にはありませんでした。書き足したのは、慰めない人が一人要ると思ったからです。
次回、彼女はいつものやり方をもう一度試します。三度目です。
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