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婚約破棄された悪役令嬢ですが、仕事を奪った王宮が先に崩れました  作者: 水城ルナ


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110/114

第110話 教わっていない

 南の橋が落ちたのは、雨の三日目だった。完全に崩れたわけではない。片側の橋脚が沈み、路面が傾いた。渡っていた荷車が一台傾き、積荷が川へ流れた。人は無事だった。それだけは、幸運だった。


 アルノーは、報せを受けて走った。現場には、すでに人が集まっていた。南の代表がいた。北の代表もいた。二人とも、青い顔をしていた。


「補修の順は、決まっていました」


 南の代表が、誰にともなく言った。


「決まっていたんです。南の橋は、行う。分類表の第二列に、確かに書いてある」


「行う、とは書いてありました」


 北の代表が、低く答えた。


「いつ、とは書いていません」


 二人は、それきり黙った。アルノーは、傾いた橋を見ていた。雨は弱まっていたが、川の水位は落ちていない。上流でまだ降っている。


 (分類表は、間違っていない)


 彼は、そのことに吐き気がした。分類表は正しかった。南の橋は「行う」の列に入っていた。誰も忘れていなかった。会議のたびに議題に上がっていた。上がって、着手順が決まらず、次回に送られた。それを二十三回繰り返した。


 誰も間違えないまま、橋が落ちた。


「アルノー殿」


 議長役の商人が来た。白い眉が雨で貼りついている。


「あなたに、決めていただきたい」


「……俺には、権限が」


「では、権限を差し上げます」


 商人は、そう言った。


「差し上げます、と言われた権限は、返せません」


「返す必要が、ありますか」


「外れたときに、返します」


 アルノーは、そこまで言って、自分の声が硬くなっていることに気づいた。


「返せない権限を持った者が外すと、その人が全部を負います。負いきれなくなったら、逃げます」


「あなたは、逃げる方ですか」


「……分かりません」


 正直に答えると、商人は困った顔をした。アルノーの背筋が、冷たくなった。


 それは、彼が去年ヴェルクで見たものと同じ形をしていた。誰も引き受けたくないから、引き受けそうな者に押しつける。押しつけられた者が失敗すれば、押しつけた者は責任を負わずに済む。


 彼は、去年、その場で言った男を覚えている。若い男だった。どうせ外でも同じだ、なら、ここでやる、と言った男。


 あの人は、押しつけられて引き受けたのではなかった。自分から取った。違いはどこにあるのか。


「……お待ちください」


 アルノーは、そう言うのが精一杯だった。


「権限は、差し上げますと言って渡すものではありません。ここにいる全員で、誰が持つのかを決めるものです」


「では、決めましょう。あなたが持つ」


「それでは、同じです」


 彼は、思わず声を張った。


「俺が決めて、外れたら、皆さんは俺を責めます。責めた人は、次に決める人がいなくなることに気づきません。ヴェルクで、そうなりました」


 誰も、何も言わなかった。雨の音だけが、川の上に落ちていた。


 夕方、雨が上がった。川べりに残ったのは、傾いた橋と、流れた荷の持ち主だった。若い行商で、積んでいたのは冬越しの豆だという。


「保険は」


 アルノーが聞くと、男は首を振った。


「そんなもん、内陸の荷にはつかない」


「都市に、補償の取り決めは」


「あるらしい」


 男は、濡れた縄を巻きながら答えた。


「あるらしいけどな。誰に言えばいいのか、誰も知らねえ」


「……分類表には」


「読んだよ。壁に貼ってあるやつだろ。俺の荷は、あの表のどこに入るんだ」


 アルノーは、答えられなかった。あの表には、補修する対象しか書いていない。落ちた橋で流れた荷のことは、どこにも書いていない。書いていないものは、誰の持ち場でもない。


「……申し訳ありません」


「では、どこへ言えば」


「知らねえよ。あんたが知らないなら、誰も知らないだろ」


 男は、縄を肩にかけ直した。


「あんたが謝ることか?」


 男は、そう言って、少し笑った。責める気もないらしい。


「まあ、そういうもんだよ。誰も悪くない」


 その一言が、アルノーの中に、長く残った。


 その夜、アルノーは宿で紙を広げた。分け方は、書ける。彼は三本の線を引き、確認する者と承認する者を分け、迷いを一覧にできる。


 だが、その紙を見て誰かが動くかどうかは、まったく別のことだった。あの人が置いていった紙は、なぜ動いたのか。


 思い出そうとして、彼は自分が現場をほとんど見ていないことに気づいた。リーヴェルトのとき、彼女は会議に来なかった。資料だけが、順番どおりに、必要な場所に届いた。それを見て、皆が動いた。


 (何が違う)


 紙は同じだ。手順も同じだ。違うのは、あの紙には、書いていないことがあったということだけだ。


 彼は、筆を置いた。教わっていない。その言葉を、彼は書簡に書いてしまった。書いてから、少し恥じた。教わっていないのは、教える人がいなかったからだ。責めるつもりはなかった。


 ただ、気づいたことが一つある。教わっていないのは、俺だけじゃない。ベルナデッタも、ルツェの人々も、リーヴェルトの後を継いだ書記も、皆、分け方だけを持って、その先で止まっている。誰も渡されていない。


 渡されていないのに、増え続けている。

分け方は真似られます。引き受け方は、真似られません。

アルノーが書簡に書いてしまった「教わっていません」は、彼だけの話ではありませんでした。


次回、その報せが、彼女のところへ遅れて届きます。行商の口から。


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