第109話 契約を読み返す
カイエルが持ってきたのは、古い書類だった。
「三年前のだ」
彼は、机の上にそれを置いた。羊皮紙の縁が少し波打っている。封蝋は割られたままだ。リリアーナは、それを見て、すぐに分かった。王都外れの小さな迎賓施設で、二人が署名したもの。ひと目で全部思い出せる程度には、短い書類だった。
「よく残っていましたね」
「捨てる理由がない」
カイエルは椅子に座り、書類を彼女のほうへ向けた。条項は四つだった。表向きの役職なし。判断補佐ではなく、判断整理権を付与。決定権者は第二王子。線を引く権限はリリアーナ側。
そして、彼女が自分から足させた一行がある。
――自身の判断が政治的に利用される場合、関与を拒否できる。
「読み返せ」
「覚えています」
「覚えているのと、読むのは違う」
彼女は、指で文字をなぞった。三年前の自分の字は、今より少し角が立っている。あの頃は、書くときに力が入っていた。王宮を出たばかりで、まだどこかで身構えていたのだと思う。
(拒否権)
あのとき、これを入れさせるのに、彼女は一言しか使わなかった。カイエルは当然だと言って、その場で書き足した。躊躇がなかった。だから信用した。
条項というものは、たいてい、書いた時点では使われない。使うときが来たら、そのときはもう関係が壊れている。彼女は十年、王宮でそういう文書を作ってきた。壊れたあとに読まれるために、条項を整える仕事だった。
この四つは、三年間、一度も使われなかった。
「一つ、確認しても」
「言え」
「この書類を、誰かに見せたことは」
「ない」
カイエルは、即答した。
「見せる相手がいない。俺とお前の間にしかない取り決めだ」
「……ええ」
「今回、これは使えるか」
カイエルが聞いた。リリアーナは、少し考えた。
「使えます。合同評議への出席を、拒否できます」
「その先だ」
「……」
「お前が拒否した結果、何が止まる」
答えは、初めから分かっていた。
「何も、止まりません」
彼女の拒否は、彼女を巻き込まないようにするための条項だ。世界を止める条項ではない。三年前、それで十分だった。彼女が関わらなければ、彼女の判断は利用されなかった。
今は違う。彼女が関わらなくても、彼女のやり方は使われている。
「この条項を、私は一度も使いませんでした」
「知っている」
「使わずに済んだのは、あなたが政治的に使おうとしなかったからです」
「当たり前だ」
カイエルは、心外そうに眉を寄せた。
「もう一つ聞く」
カイエルは、書類の上の一点を指した。決定権者は第二王子、と書かれた行だった。
「これは、まだ生きているか」
「契約としては、生きています」
「実際は」
リリアーナは、正直に答えた。
「合同評議は、王国の外の枠組みです。あなたの決定権は、そこには届きません」
「そうだ」
カイエルは、あっさり認めた。
「今回は、俺が守れない」
部屋が静かになった。彼は、それを言いに来たのだと、彼女は理解した。守れないことを、はっきり言葉にするために、わざわざ三年前の紙を持ってきた。書簡で済む話ではある。書簡なら、一行だ。この人は、いつもその一行を歩いて運んでくる。
「三年前、俺は最終責任は俺が負うと言った。あれは本気だった。お前を矢面に立たせないために、俺が前に立てる範囲で契約を組んだ」
「ええ」
「その範囲を、今回は超えている」
彼は、書類を軽く指で叩いた。
「守れないのに、守るふりをするのは、卑怯だ」
リリアーナは、目を伏せた。
(……この人は)
いつもそうだ。庇わない。同情もしない。できることとできないことを、そのまま並べる。三年前、彼女がこの人を信用したのは、まさにそこだった。
「それでは」
彼女は、顔を上げた。
「この契約は、破棄しますか」
「したいのか」
「……いいえ」
「なら、置いておけ」
カイエルは、書類を彼女のほうへ押し戻した。
「使えなくても、あったものはあった」
彼女は、その紙をもう一度見た。署名は二つ。彼のものと、彼女のもの。日付は三年前の初夏で、場所の記載はない。書いたときは、それが不備だと思った。今は、そのほうがいいと思う。場所を書けば、その場所が意味を持ってしまう。
「一つ、伺っても」
「言え」
「あなたは、この契約を、何のために結びましたか」
「言っただろう。能力だ」
「それは、三年前の答えです」
カイエルは、少し黙った。
「……今も、同じだ」
「そうですか」
「不服か」
「いいえ」
彼女は、正直に答えた。
「変わっていないと聞けて、安心しました」
彼は立ち上がりかけて、思い直したように座り直した。
「一つだけ、言っておく」
「はい」
「三年前、お前は俺に条件を出した。私は拾われる立場ではない、と」
「……ええ」
「今回もそうだ」
カイエルは、まっすぐに彼女を見た。
「誰も、お前を拾おうとしていない。中央神殿も、評議会も、俺もだ。だから今度は」
一拍。
「お前が決めろ」
その言い方には、期待も、圧もなかった。ただ、事実として言われた。リリアーナは、机の上の古い書類を、静かに引き出しにしまった。
引き出しの中には、去年の白紙と、二日前に丸めなかった紙が、まだそのまま入っていた。




